他の日記へのリンク - メモのような日記のような(4) 2021.03.14-
- メモのような日記のような(3) 2019.11.16-2020.07.31 へ
- メモのような日記のような(2) 2018.11.24-2019.10.30 へ
- このページ→メモのような日記のような(1) 2017.10.17-2018.11.04
- 独自ドメイン取得とレンタルサーバー契約 2018 年 11 月 4 日 (日)
- 東京の地下鉄は日本一複雑らしい! 2018 年 10 月 27 日 (土)
- 「感覚的なもの」は「内容」を変容させて,新しい創造的な価値を生むか?
製本,表現形態,創造,ついでに,システムにおける人間の寄与 2018 年 9 月 18 日 (火)- アルキメデスの公理的な生き方,あるいは,迷いの世界の中 2018 年 9 月 2 日 (日)
- 数学の証明や説明と説得術(レトリックなどもかな) 2018 年 8 月 10 日 (金)
- Zorn の補題と選択公理 2018 年 7 月 26日 (木)
- Panasonic Let's note CF-S10 の熱対策 2018 年 6 月 11 日 (月)
- 相手の中に自分を見てしまう あるいは,Otsk 社長論 2018 年 3 月 3 日 (土)
- 「笑い」のリファレンスモデル,フレームワーク,デザインパターン 2018 年 2 月 10 日 (土)
- 同型とは単に要素の名前を付け替えたに過ぎない 2018 年 1 月 28 日 (日)
- 技術的な発表にも「起承転結」は必要? 2017 年 12 月 27 日 (水)
- 階層的な証明について~ 証明をビジュアライズする試み ~ 2017 年 12 月 15 日 (金)
- 「愛しているよ」と言葉にして欲しい! または Generalized element のこと または 量子論的な結婚観 のこと 2017 年 12 月 11 日 (月)
- ダンボールの上の研究者たち 2017 年 12 月 2 日 (土)
- 人に酔う 2017 年 11 月 27 日 (月)
- 本の表紙をデザインするページを作った 2017 年 11 月 20 日 (月)
- 数学とは,壮大なる言い換えの学問と見たり 2017 年 11 月 17 日 (金)
- クラウン独和辞典をブックオフで買ってきた -- ドイツ語の語源の話 -- 2017 年 11 月 12 日 (日)
- J.B. Nation の Notes on Lattice Theory の closure rules について (2)
Web-site のページのタイトルを「文句」→「要望」と修正した 2017 年 10 月 25 日 (水)- つんどく(積読)のアイコン第1号を作った 2017 年 10 月 23 日 (月)
- MinGW の gcc が E: を参照することについて 2017年10月21日(土)
- J.B. Nation の Notes on Lattice Theory の closure rules について 2017年10月14日(土)
10月のはじめに
サーバーを移るとなるとお金もいるし,検討も必要なので難儀だなと
思っていたのだが,
に書いた(色々,試行錯誤があるたびに記述が増えるはずだから「書いている」).
の略のつもりだ.英語の文法にあっているかどうかは分からないが.
とりあえず,ドメインも取得してサーバーも借りて,年間,4,000円~8,000円の お金さえ払い続けられれば,恒久的に居られる場所ができたので,これを バネに計算機科学の教材作成に邁進することにしようかと思う.
今回はひねりが一つもない.
私も昔(2010年位)は大学の教員の職を得ようとして,いくつか応募したことがある.
言い訳にはならないが,私は企業にいて仕事の内容も色々変わったので,
あまりジャーナル論文の数がない.だから,
で,この絵に書いたことは今でも,かなり真理だと思う.大抵の数学の図式は, 少なくとも東京の地下鉄の路線図より簡単である.また,皆さんが自宅から学校なり 会社に通う通学路なり通勤路と比べても,通り道で出会う様々な景色や出来事などを 含めると,やっぱり,普通の数学の図式のほうが簡単である.
では,なぜ皆さんが通学なり,通勤ができて,数学ができないのか
(
数学で図式なり定義なり,定理なり,証明なりを頭の中で保持するコストが 大きいからじゃないだろうか.我々が数学の教科書を読むとき,定義や定理が 何を言っているかイメージするのに相当時間がかかると思うし,(頭の) 労力がかかると思うし,それで嫌になるし,で,中々読み進めない. うっかり,自分の理解以上のスピードで進めてしまうと,あとで, 用語が分からなくなり,どこに出てたかなと探すことになる.
これらが通学路や通勤路にあるもののようにはっきりイメージできて, 新しい定義が出てきたとき,ほんの少しの労力で,その定義のイメージを 描くことができたら,私たちは,今みたいに数学の本を読むのに苦労しない かもしれない.
と言うことで,一度,徹底的に,「本当にはっきりイメージできるまで」 教科書の最初の方を,
この考え方は Kndh さんと語るにも書いているので参照してほしい.
製本,表現形態,創造,ついでに,システムにおける人間の寄与
と言った問題である.まったく内容は一緒のドキュメントを PDF で PC の画面上で読んだ場合と, 製本されたものを手に取って読んだ場合では,読者の中に生まれる創造的な 価値は変わるか?
先日,知り合いの Otsk 社長が彼のコンサルティング会社(ソフトウェア関連)で
出すかもしれない小冊子の PDF(製本用)を送ってくれた.私は,時々,
PDF のドキュメントなどを
簡易製本して遊んでいるが,Otsk 社長も昔,同人誌などを製本して遊んでいたらしい.
ここで,私は従来の本の方が電子的な本より優れているという論をしようと いうのではない.従来の本は,電子的な本にない色々な魅力を持ちつつも,やはり, 今後,電子的な本が色々な可能性を求めて,より発展,普及してくべきだろうと思って いるからである.
そうではなく,通常,ドキュメントの
本当は,今回は,この問題に自分なりの考えを書くつもりだったのだが,書き始めると 問題の設定さえできないということが実感されるようになってきた.最初に出した絵など は,「(同一の)内容」など,突っ込みどころ満載な絵である. いま,論を進めるのは無理そうである.かといって,放っておくのも, 頭の中に何度も現れる疑問をそのままにしておくことになり良くないので,上記のメモ的な 内容だけでも 残しておくことにした.
また,上の副題に
と書いたが,製本,表現形態と創造については上に書いた内容からおよそ問題意識が 分かると思う.もう一つの製本,表現形態,創造,ついでに,システムにおける人間の寄与
といい類のことを良くいうのだが,「価値を生む」という観点からはつながると 思ったからである. 通常,「もの」が複数あると,それらの相互作用があるので, 算術総和以上のなんらかの機能が発生する.そうすると,上のシステムの定義は 「もの」が集まってさえすればよいのだろうか? つまり,この定義だと, 世の中にシステムで」無いものは存在しなくなってしまう.しかし,通常,システム屋 さんの頭にあるのは,「何らかの有益な機能」である.もっと,詳しくいうなら, 「人間にとって何らかの有益な機能」である.そのシステムの個々の「もの」を 見ていただけでは気がつかなかったシステムとはそれの部分の算術的総和以上のものである
上で,
という問いの意味を明確化したいと述べたが,そこで生まれるかもしれない価値も 人間の「感覚」に大きく依存したものであるということを思い起こす象徴的なものとして システムのビューに関する問いもメモとして残しておく.「感覚的なもの」は「内容」を変容させて,新しい「創造的な価値」を生むか?
私は,まだ会社勤めをしていたころ,
(どんなに大きな)正の数 Y と(どんなに小さな)正の数 x に対しても,ある自然数 n が 存在して,n・x ≥ Y となる.
というものである.よく知られている原理だが,アルキメデスの名前がついていることは 知らない人も多いと思う.
これをどのように使うかというと,単純な話だが,
どんなに大きな仕事でも,毎日少しずつきちんとやっていけばいつかは終わる
と思って,気を楽にしながら,毎日地道にやるべきことをやっていくのだ.
この公理にはいくつかの欠点がある.まず,n がいくつになるかということである. これが非現実的な数だと,「いつかは終わる」とは言えないだろう.また, Y が時間とともに増える場合は公理がなりたたないこともあるし, 考えている空間が1次元の空間でなく,2次元以上で,ベクトル x がベクトル Y と 違う方向を向いている場合も適用できない.これらの場合は,Y を少し少なくして, つまり仕事を少し減らして n が現実的な値になるようにしたり, Y が増えないように工夫したり,方向をきちんと,こまめに見ていくなどの工夫が必要である.
しかし,こういう心配事や対策方法はあるにはあるにしても,実は,最大の困難の原因は自分自身である.
以上,いろいろなことを述べたが,しかし,
いま,私は学生時代のサボりのつけで, 計算機科学の基礎に必要な数学の勉強をしている.会社を辞めて,5年目に入るが, 圏論,半群論,束論など,中々終わらない.じつは,最近,さらに集合論まで加わって しまった.集合論は大学のときにサボりながらもやった常識的な知識の範囲内でなんとかなるかと思っていたのだが,やはり,もう少し 深く踏み込んでおかねばならないと思い始めて,今,公理的な集合論を勉強している. この状況は先ほど述べた Y が増大する現象に相当するので,やるべき Y を少し降ろしたり, 今できる範囲でアウトプットを出していったりと工夫しなければならない.
もう一つ,アルキメデスの公理的なアプローチには良いところがある.それはこういう
菩薩さま方は,この完全なる知恵の教えの故に,心にくもりがなく, くもりが無い故に,「あした天地がひっくり返ってしまうのではないか」というような 荒唐無稽な恐れからはいっさい離れて,究極の心が安定した状態でいることができるのである.私の場合,特にもう仕事から離れていることもあり,
(私の理解で書いているので一般的な理解と違っていたらごめんなさい)
などと心配する必要はまったくない.やれるだけやって,やった範囲での成果をだしていけば よい.そのためには,もちろん,日々の方向付けなどはやっていかないといけないが, 一つ一つの x は,心を無にしてこなすことが大切である.まだ現役で沢山仕事を 抱えている人も,微調整や途中の成果のアウトプットを気にする必要はあるが, 一つ一つの x を無心でこなすことは大切だと思う.私が今やろうとしていることは Y が大きく,x が小さいので, 予定しているところまで終わらなかったらどうしよう
とにかく,こころを無心にして x をしっかりこなしていくのだ.それが,大きな Y を 攻略することにつながる.しかし,「Y の攻略につながる」ことを見込んで x に打ち込んだ振りをすれば,逆に, これは「欲」に駆られて,効果を気にしながら x をやっていることになり, 出来ないと「あせり」がでてきて逆効果だ.したがって,本当に x を無心でやるのが良い. 幸い,今取り組んでいる「集合論」は面白いので,やりはじめれば無心で打ち込めるお勉強ではある.
最後に,今回は話が少し仏教的な方向に行くところもあったが,特に他人に仏教を 勧めている訳ではないことを断っておく.
P.S.
もしかしたら,人間の目的とは本来,Y をやり終えることではなく, x をやり続けることなのかもしれない.
P.S.2
本文にも書いたように心が押しつぶされたときは,この本来
数学の証明とは,命題が正しいことを確認するための論理学的手法であって(たぶん),
人間相手の説得術とかレトリックとかと関係無いように思える.証明は,
それが公理から推論規則の連鎖で飛躍無く導かれていれば正しい訳で,
これは一応認めつつ,人間相手だと,やはり証明における説明の上手い下手が出てくる. 特に,その証明を読む人が,学習を始めたばかりの初学者だと,証明の文章や そのほか表現の形態によっては,泣かなければならなかったり,また反対に, ずいぶんと学習がはかどったりする.
それで,今回のテーマ,
本の著者なり出版社なりは,本を売ったからには,そういう技術を応用して,
たぶん,数学書の著者がそれをやるのは
難しいかもしれないから,出版社なりが,
ところで
やはりある程度,
まあ,今のところ決め手はなさそうだが,
こういう
いま,
A 君はヒルベルト空間とか,いくつかのその手の空間のことは理解できる みたいなんですが,それを抽象化してモノイダルカテゴリーの中で 表現するということが分からないみたいなんですよ.手を変え品を変え 説明しているんですが,もうお手上げです.今後,人間がこのままだと2年生から3年生に 上がることはできないので,大学を卒業するのは無理なんじゃないでしょうかね.
最後に,証明の話に戻って,まあ,世の中には非単調論理とか色々な論理体系が あるので,説得が下手だったら, 命題が成立しない論理体系があっても良いかもしれない.なんの役に立つかは 今のところ分からないが.
(P, ≤) を任意のチェイン(P の中の部分集合で全順序集合になるもの.鎖ともいう)に
必ず上限がある
順序集合とする.このとき, P には少なくとも一つの極大元(それより大きい元が存在しない元)がある.
(この補題の中の「上限」を「上界」に変えてもよい)
空集合でない集合の集合 X があるとき(つまり,x ∈ X ならば x は空でない集合),X の各集合から1つずつ要素を選ぶ関数
f : X → ∪X で f(x) ∈ x for ∀ x ∈ X
が存在する.
内容はどちらも一見あたりまえである.しかし,これを認めてしまえば,
Zorn の補題の証明は難しいと言えば難しいのだが,大学1年生の集合論で出てくる程度の 補題である.証明の分量はどんな手法を使うかによって結構変わるのだが,私が40年くらい前,大学の時に買った 教科書(「買った」教科書である.「使った」教科書ではない)で2ページとちょっとである. 短い証明としてはハワイ大学の J.B.Nation 教授のホームページ にある Revised Notes on Lattice Theory - first eleven chapters のAppendix2 : The Axiom of Choice にあるものが約1ページである.
Zorn の補題は何回か証明を追いかけたことがあり,いつも難しいと感じていたが,
今回,改めて真面目に集合論を勉強しなおす気持ちになったこともあり,独力で証明してみようと思い立って,
取り組んできた.そして,言うのも恥ずかしいのだが,
Zorn の補題の証明の
来る日も来る日も,「もうあきらめて本を見ようか」という悪魔さんのささやきに対して, 「いや,一度こういうことを経験しておかないと.自分は,計算機科学の基礎を 学びやすくする参考書やツールを作るのだから,そのための貴重な経験だ」と頑張って1か月半, ようやく出来た.自分でも,まさか,1か月半かかるとは思ってもみなかった. 自分のアホさ加減を甘く見ていた.こんなことができるのも,私が退職しているからで, 勤め人ではとてもこんなに Zorn の補題の証明に時間を費やしている訳にはいかないだろう. いや,もしかしたら勤め人でもできるかもしれない.別に Zorn の補題の証明ができなくたって, 給料がもらえない訳ではない訳で,帰ってからできるまで何年でもやってればよい訳だ.... 少し, 妄想が激しくなってきたので,現実に戻ろう.
Zorn の補題の証明に長いこと取り組んでみて,思うことがある.一つは集合論に関することで もう一つは教育に関することだ.
これは,私がこれから作ろうとしている計算機科学の基礎のテキスト作成にも大きく影響を
与えると思う.計算機科学は,数学から見れば応用の位置にある.私は,
今のところ,イメージ中心で証明には重きを置かずに説明を構成しようと考えているが,
易しく,優しく,やさしくしていると,足腰が鍛えられず,証明などの力がない人間が育って
しまうかもしれない.今持っているスキルでも,使わなければ衰えるし,もともとスキルがなければ,なにもやらないでそのスキルが突然身につくわけでもない.例えば,発表の力や説得力だってそうだ.一部の天才的なレクチャラーは突然の発表でも
人を引き付ける分かりやすい発表ができるかもしれないが,私ら程度だと,長い間発表しなければ
あきらかに説明のとき詰まるようになってくる.
まあ,とりあえずは
でも,そうするとここに絵が無くなるので,新たに絵を描いて,現在の状況を 載せておく.現在は,
のようになっていて,USBファンが動いていると,とりあえず,ノートパソコンは 止まらずに動いてくれている.
あるいは,Otsk 社長論
2月の中旬に,知り合いの
僕らも歳なんだから,少しは自分の好きなことをのんびりとやったらどうだ?と悪の道に誘ってみた.雑談のあと,なぜか,Otsk 社長に
世の中,正しい正しくないで割り切れないこともあるから...と,たしなめられてしまった.
きっと,
ところで,私は,
そう言えば,合点の行くところがある.Otsk 社長と話すとき,時々,金の亡者は,Otsk 社長ではなく,実は,私なのだろうか?
しかし,
この図には書いてないが,第3軸目として頭の良さをとれば,Otsk 社長も 対比のために
書いた
Kndh さんも
ピカいちである.だから,
Otsk 社長には,社会のためとか,ソフトウェア技術の発展などの戯言を言わずに,
きちんと
ソフトウェア開発の世界では,往々にして,といったことを話したように思う.うーん,たしかに,Hgwr さんに 「好きなことをゆっくりやれば?」とは言っていないみたいだ. でも,言いたかったことはあれだ.現場と理論屋の乖離 がある. 理論屋は現場には分からない抽象的な言葉で,おもちゃみたいな問題をこねくりまわして 遊んでいる.現場は現場で,日々の出来事に一喜一憂して,理論に注意を 向けようとしない.これは,理論をやりたい理論屋が現実をくみ取る努力を することでは解決しない.所詮,
理論屋がやりたいのは理論 であって, それをやるためにしかたなく現実から問題をとってきているのだから.この状況を打開するためには, 現場の人が理論を容易に学習できるようにして,理論屋としては 不完全でもよいから,
一人の人の中に現実と理論を内在 させることが 必要だ
4年前 2014年に会社を辞めた直後,「笑い」の調査を結構熱心にやった.
当時,
前置きが長くなったが,このようなわけで,退職後,「笑い」についての色々な書物や論文を
漁ってみた.私の問題意識は,「『笑い』を定常的に生産するためには,何を
考えなければならないか,そしてどんなテクニックが使えるか?」ということである.
前者は,「笑い」の場に登場する「もの」の集まりとその関係を理解するもので,
謂わば,
2014年当時漁った中では,次の2つは,使えるんじゃないかなと思った(あくまで,私の目的についてである).
上野氏の論文は「笑い」の色々な説をまとめようとしており,リファレンスモデルの近似 モデルとして役に立つと思った.13ページの短い論文だし,検索すれば PDF を見つける ことができるので,「笑い」に興味のある人は読んでみると良いと思う.
ここでは,以下,2番目の織田氏の本について話す.
織田氏は,本の中で色々なことを述べているが,我々の目的,つまり,
その前提として,とある.読者は,「何を当たり前のことを」と思うかもしれないし,「いや, そんなところで分割するのはおかしい」と思うかもしれないが,とりあえず, これは何か「笑い」について構造が作られ始めている訳である.<おかしさ> と<笑い> を区別しておく必要があります. 可笑しさというのは笑いを呼び起こす原因であり,笑いはそれに対する反応です. 例をあげると,人がころぶのが可笑しさであり,それを見て「アハハ」と 声を出すのが笑いです.
文章はしばしば対象を不鮮明のまま分かった気にさせる.
上に日本語で書いたとおりのことが描いてある訳である.これだけだと面白く ないかもしれないが,この絵をじーっと眺めてみると,
織田氏は「おかしさ」の主要素を
私自身は,「笑い」を作り出すテクニックを「実用」に供することが目的なので, 「おかしさ」の部分はいくつかのパターンをノウハウとして抽出した時点でこの 作業をやめた.このようにして「笑い」の核となる部分を作成した後は, 図に書いてある色々な要素,例えば,「認知のリソース」と突き合わせ,読者が きちんと認知できるだけの簡単さを持っているかのチェックを行うなど,形を 整えていくことにこのモデルを使うことができる.
例えば,冒頭の絵は,「おかしさ」の構造の中に,「笑いを起こす人物」のほかに 「(副)笑いを起こす人物」(その絵に出てくるナース)が入れてあり, この人の発言で絵の雰囲気を制御できるようになっている.冒頭の例では,「笑いを起こす人物」の 愚かしさを増加するためにその発言を使っている.また,次の例では,冒頭の例と違い, ナースを患者さん側の立場に近くして,状況を緩和する 効果を持たせる使い方をしている.「おかしさ」の部分はいくつかのデザインパターンが 入れば実用上十分のような気もする. 実は,このデザインパターンを示さないと,今回作ったリファレンスモデルの中には 「笑いを起こす人物」などのように形容詞として表れているだけで「笑い」の要素は出ていない. 笑いは,「おかしさ」と「認識」とその関係の 中に埋もれてしまっている.ただ,ここはさすがに企業秘密だ.明かすことはできない (単に出来てないだけのような気もするが).
最後に,今回なぜ,この日記を書いたかというと,次の本を図書で見つけて 借りてきた記念にである.これはつい最近出たことを知って,近くの図書館に あるか調べたら,あった(嬉しかった).
中村明 :日本語笑いの技法辞典 , 岩波書店, 2017年11月28日, 630 ページ
この本は日本語の文章での笑いに限るが(つまり,絵などテキストにならないものは入らないが), 「笑い」を転換,間接,転換,多重など12個のカテゴリー,さらにその下にも分類を 設けて,全体で287種に分類した大作である.これが出版される前に出た紹介用のパンフレット には,
ということが書いてあった.とても分かりやすい表現だと思った.と同時にこの言葉から次のような2つの 疑問が浮かび上がってきた.同型とは単に要素の名前を付け替えたにすぎない
(isomorphism is just renaming of elements.)
今回はこれらについて思ったことを書いてみる.
しかし,一方,Leinster の言葉の通り,
と言う具合に,役に立つ,役に立たないの2つの予想があるわけだが,列挙してみると 結構役に立つ例が見つかった.例えば,群や半群の行列の表現などは分かりやすい例だし,
ex : R → R+ と log(y) : R+ → Rも単純だが, 加法と乗法が本質的に同型との見方を与えてくれて有難い.また,半順序集合 (P, ≤) から 順序イデアルの集合 O(P) への(中への)同型写像
P → O(P) x |→ ↓x = {y ∈ P | y ≤ x}は,B = O(P) の世界での知識の利用もさることながら, 完備な順序集合への埋め込みということで,極限のとれるより広い領域の存在を示唆してくれて 有用である.
これらはそのうちまとめてみたい.
しかし,このように知識の蓄積された領域や完備な領域の恩恵にあずかれない場合もあるだろう.
そのような場合,問題を簡単にする写像としては準同型写像がある.写像
h : A → Bが準同型で,B の構造が A に比べて単純な場合は,複雑さに隠れた問題の本質を見出すことが できることもある.ただし,この場合の欠点は,B の世界でのことが全部Aに持ち帰れないことだ.B の世界では問題の解があっても,A の世界で解を得ようと思うと,もう一工夫しなければならなかったり,あるいは,A では解がないことも起こり得る.
この同型写像と片方からの準同型の中間的な関連として随伴関係,あるいは,前順序関係に絞れば, ガロア接続という関係がある.これについてはまた別のところで述べようと思う.
名前の問題は数学でより,
プログラミング言語屋さんが作る言語ではオブジェクトの識別子はあまり設けないが, 人工知能などで登場する言語では名前が存在するものがいくつかある.応用領域に 近い人間にとって,オブジェクトに名前があるのは当然と思うのかもしれない.
すでに日記で書ける範囲では話は収拾できないようになっている.ここでは,
「名前」に関してはこのように色々と考えるべきことがあるということを
言いたかった.そういえば,
この間,圏論を使って量子計算や量子暗号をモデル化するというトピックスの勉強会に
いってきたが,そこで,圏論を使って,
あと,これは古いが,集合論のフォーシング(Forcing) に P-name という概念がでてきた. こちらは今まとめ中.
しかし,本当にそうだろうか?(あっ! ひっくり返してしまった!).
職場の発表指導でも,先輩たちは,口では「
と言われるはずである.「お前の発表を聞いていると,誰でも考えるあたりまえのことを当たり前にやったと いうように聞こえるんだよ.全然,インパクトが感じられないんだよ.」
これには,あなたが実際に仕事でやった方法と,発表での表現方法の2つのことがある.これらは関連しているかもしれない.
これはもしかしたら,文学などで言う
「転」とは違うかもしれない.しかし,聴衆は,少なくとも,順接だけでは達成できない何かすごいことを
聞きたいのだ.困難に立ち向かって,それを非凡な知恵と,もしかしたら勇気も
奮い起こして,やっと解決したみたいな!
もしかしたら, 逆にこの人間の感じ方が,第一のこと,つまり,仕事の問題解決に必要とされることかも しれない.問題が難しいかったり,その解決が意表をつくのは,人間がそれを解決している からだ.人間が解に求める価値も,それを難しくしていることも人間の特性がでている. 世の中の問題は,人間を感動させるために存在しているのかもしれない.
では,
上で話した落語やドラマはもともと人間の感動に関係していることなので技術系の発表の話からは
離れてしまったと思われる人もいるかもしれない.では,もう一度技術系に戻して,今度は,
数学の証明を考えてみよう.これも「エレガントな証明」などという言い方があり,美しさ,
感動,ウィットに富んだ証明というものが考えられる.思ってもみなかった方法で
証明されると,数学者と言えども感動するのだ.
話はつきない.本当は,関連して
以前,(特に大学での)数学教育における証明の表現方法について調査・考察したことがある.
ここに書くことは昔(2016年 5月 13日 (金) ), 知り合いの Otsk さんの私的な研究会で発表したことを元にしているが,将来もう一度考えることも あると思うので,ここでその概要や参考文献などをまとめておく.
「証明」というものは,たぶん,数学の醍醐味なんだろう.難しい数学的推論を
追っていくのが好きな愛好家も多いと思う.もしかしたら僕も昔そうだったかもしれない.
でも,今は
世の中には他にもそう思う人はいるみたいで,少し古いが
Uri Leron:という論文があった.これは,特に大学における数学教育において,Structuring mathematical proofs . American Mathematical Monthly, 90(3):174.185, March 1983.
従来型の前から順々に厳密に 進めていく証明は分かりにくい.証明を階層的にして,上のレベルではどんな戦略で 証明するか,つまり,証明の粗筋がわかるような詳細さで書き,それを下のレベルで詳細化したり, 正当性の厳密な記述を与えていくべきだという趣旨で,その記述方法を提案したというものである.一応,イメージ図を書いておく.
1983 年の Uri Leron の提案から,現在,すでに 34 年経っているが,欧米においても, この提案がある程度のポジションを得ているかというとそうではないみたいだ. ただ,一部の大学教育でこの方法が採用され,従来の証明方法で教えた場合と この方法で教えた場合の効果の違いが実験されたりしている.このように 教育法の実験も含めた検討の積み重ねは,今後,ますます高度な理論が必要と なる中で重要なことだと思う.ついでに私が読んだ,そのような実験の報告では Leron の方法が全面的に良いという訳ではなく,次のようなトレードオフを伴う ものだった.
Otsk さんの研究会で発表した時はこれに対して,私の試作的な提案も行った. これについてはここにサンプル を示しておく.
Otsk さんのところでの発表した時は,世の中のこのようなアプローチをざっくり 次のように分類して紹介した.
これらについても近々リファレンスリストを作ってこのページからリンクすることにしよう.
または Generalized element のこと
または 量子論的な結婚観 のこと
圏論に generalized element という概念がある.よくある定義は
といったものだ. これを読むと,一気に頭に疑問とモヤモヤが発生する.generalized element とは任意の射 x : X → A のことである.
「えっ,ちょっと待って, generalized element って? それは射のことじゃないの?」,「いや確かに定義には射だと書いてあるんで射なんだろうけど,それをわざわざ generalized element と言い換える? それになんの意味があるの? えっ,えっ,えっ? 僕,何か読み飛ばしてる?」といった疑問とモヤモヤだ.
一方, Tom Leinster の Basic Category Theory という本では
Definition 4.1.25 Let A be an object of a category. Aと定義した後で,generalized element of A is a map with codomain A. A map S → A is a generalized element of A of shape S .
‘Generalized element’ is nothing more than a synonym of ‘map’, but sometimes it is useful to think of maps as generalized elements.と補足してある.つまり,
generalized element とは,射となにも変わりないのだが, これを generalized element と呼ぶと何か良いことがあるんだよと言ってくれてる訳である. 私には,このたった一文が有難いのだ.他の本で発生していた疑問,モヤモヤがすーっと 解消していく.
有難いことの一つは,「これは射と変わりがない」と断言してくれていることである. 他の本でも,定義としてはそう(射だと)言っているのだが,やはり名前を付けているからには,なにか 違いがあるのではないだろうかと探してしまう.何度か読み直して,定義そのものに違いがないと 分かると,もしかしたら文脈で特殊な意味が発生しているのではないだろうかと文脈を精査しはじめる.ここで文脈と言っているのは,例えば,「特殊な圏についてのみ,射を generalized element という」とかである.こういった文脈にも決定的な違いを発見することができないと,疑いは自分に向けられる.「ここまで 圏論のテキストを読み進めて理解したつもりだったんだけど,もしかしたら全然理解できてなかったんだろうか」と.Leinster の本では,この心配がまったく発生しないことが有難い.
有難いことの2つめは,もちろん,「こういうふうに別の名前をつけると良いことがあるんだよ」と 予告してくれていることである.このように言われることで,「では,その良いことを待ってみようか」という気になって,テキストから知識を受け取る準備ができる.
よくよく読んでみれば,ほかの本でも射を generalized element と呼ぶことで,
「集合の要素」を連想するようなアナロジーが成立することが書かれている.ただ,それを
強い言葉で書いてあるか,あるいは,そこの文章を読んでなんとなく分かるように書いてあるかの
違いだけだ.そこで,今回のタイトルが思い浮かぶのである.人は,相手の態度で何となく好かれていると分かっていても,きちんと口に出して
連想しながら,話題がどんどん動いていって申し訳ないのだが,上の「愛しているよ」の
例は量子論を思い浮かべさせる.実は,気の迷いから明後日開催されるある勉強会に参加する
ことにした.明後日のテーマが
これは先ほどの「愛しているよ」に似ていると思う.「愛しているよ」という人は, それを言う前に,実は頭の中で色々な思考が並列して存在するはずである. 本当は同様に愛している人がいて,ほんの少しの差で目の前の人に決めたのかもしれない. 本当は愛してなんかいなくて,平穏無事な研究生活に支障のない相手だったらそれで 良いのかもしれない.そういう色々な気持ちが同時存在していて,並列に将来何が おこるかなどの可能性が 探索(人工知能での探索)されていると思う.それが,「愛しているよ」と言った瞬間に 観測者にとってただ1つの状態しか見て取れないようになる.その言葉を発した人にとっても きっと思考が「愛しているよ」に集中して,ほかに振り向けられるエネルギーは低下している だろう.日本の男性は,「『愛しているよ』と言葉にするのははずかしいから,態度で分かれよ」 というけど,言う前の意識はそれほど明確に「愛している」と形作ってないと思う.
似たようなことは
今は,私は,会社をやめてそういう配慮も薄れてきたので,めいっぱい,聴く人を
混乱させていると思う.知り合いの
KNDH さん
には,
先ほど言ったように明後日,某勉強会に参加するために,量子計算と
モノイド圏(or 豊穣圏)を予習しないといけないのだが,
ついつい,絵と長文を書いてしまった.何かやらないといけないとき他に手を出すのは
昔から変わっていない.とりあえず,できるところまで予習して参加することにしよう.
大学でさぼったのもあって,基礎があまりできてない.それでも最新の研究をやっていかないと いけないので,必要最低限だけ勉強して,なんとかその上に立てるようにする. やはり忙しいので,あまり広い部分の土台を作ることはできない. そうすると踏んではいけない部分が沢山できてしまい,それで今回のタイトルにあるように ダンボールの上に立っているような気分になる訳である.おまけに世の中は日進月歩である. 次々に研究しなければならないことがでてきて,結果としてダンボールの上にダンボールを 重ねて,非常に不安定な状態になる.タイトルの最後には,「研究者たち」と複数形になっている. これは,周りを見渡すに,こんな状態なのはきっと私だけではないだろうという推測からである.
私は大学のとき,さぼったという自覚があり,その後ろめたさから 下に盤石な基礎を敷きたいと思っているのだが,そもそもそんな基礎を敷くことが できるのかという疑問もある.先ほど言ったように,世の中,日進月歩なのである. 学ばねばならないことが次々に出てくるのは仕方がない.きっと多くの人は,このような 足元の不安定さを我慢しながら仕事をやっているのだろう.
でも,もしかしたら,一度立ち止まって,土台をしっかりして進み始めれば,もっと良い成果を出せる 研究が続けられるかもしれない.
あるいは,もしかしたら,そんな土台を作っても,世の中の進歩ですぐ元の状態に戻ってしまうかもしれない.
あるいは,最初から土台がないのが本来の研究者の姿で,常に必要な部分を補強しながら進むしか ないのかもしれない.
色々なやり方が考えられるが,とにかく,私は,一度止まって基礎的な数学に 限って,土台をしっかり作る決心をした.55歳で人生の折り返し点をかなり過ぎてからなので これがうまくいくかどうか.
もっとも,「うまくいく」ということがどういうことなのかさえ,考え方によるのだが.
あと,そういうダンボールの上の研究者と付き合うと,必然的に次のような目に あうことは覚悟しなければならない.
いくら彼が,熱のこもった眼差しで素晴らしい未来を語っていても, 足元をしっかり見て,何があるか,そして足が震えていないか確認しないと,...
積み重ねたダンボールの上から一緒に落ちることになる.
次の絵はおまけ.
先日(11月21日)も,知り合いのO氏とI嬢が主宰している研究会に行って,会の後 ファミレスで楽しいひと時を過ごしたのだが,やはり少し人に当てられてしまった.
個性の強い人ばかりだというのもあるが,ものに対するのと,人に対するのでは,後者では生物としての本能で,防御したり,主張を通す努力をしたりで, 能力のフル回転が起こるのだと思う.相手は古くからの知り合いなので,そんなことを 心配する必要はないのだが,たぶん,条件反射的に,そういう反応が起こってしまうのだろう.
一般的に,人と会話したり,人に説明したりするとき,よくアイデアが浮かんだり問題が解けたりすることが あるが,あれは,他人の新しい発想を取り入れるだけでなく,自分自身の能力もフルに絞り出して いるからかもしれない.
私は,インターネット上で公開されている半群論や圏論,束論などのテキストを印刷・製本 して持ち歩いているので,それらの本にちょっとした表紙が欲しかったのである. それで適当な絵と文を配置して表紙もどきを作っていたのだが,その作成ノウハウと 参考資料をまとめておくことにした.右の絵は,映画の絵の作り方を参考にして描いてみた ものである.そんな作り方を上にリンクしたページに書いた.
今回は,DO IT YOURSELF の製本のついでに趣味で表紙を作る方法を書いたが,これは
実を言うと6・7年前に,ちょっとやってみたことがある.ほぼ
もう一つサンプルを載せておく.これも寺田寅彦の随筆で「アインシュタイン」という
タイトルだ.これは描くにあたって「レナード(サンプルの絵を参照)」が誰かは調べた.かなり,アインシュタインを非難した
人みたいだ.でも,なぜ,ここに
レナードを描くのかはよく分からない.とにかく例の人工無能に,ここにレナードを描けと
言われているので書いてみた.正面の人はたぶんアインシュタインではない.ここには
「私」を描けと言われた.この絵を見ただけでは,もとのテキストに何が書いてあったか
さっぱり分からない.もし,この表紙を見て,その随筆を読んだ人は表紙に騙されたことに
なるだろう.読んで良かったという具合に騙されてくれるなら良いのだが,別のふうに騙されても
怒らないで欲しい.なにしろ寺田寅彦の随筆だ.読んで無駄になるということはないだろう.
まあ,色々と議論はあるのだが,このような表紙でもついていると昔の著作権の切れたテキストでも読みたいという
気が起こる人の率は上がるのではないだろうか.
今は,圏論,半群論,束論の勉強をやらないといけないのでなかなか手がでないが, そのうち,機会があればもう一度取り組んでみたい.
ということに なり,「証明できないけど俺はこのことを直観で理解した」
を来る日も来る日も眺めていたことがあった.英語の語源については沢山の本が出ているが ドイツ語の語源の本はあまりない.(これを書いている時点で)手ごろなドイツ語の語源の本としては, この本がほぼ唯一ではないかと思う.でも,この本は薄いのでやはり記述量が少ない. 例えば,ドイツ語語源小辞典 (同学社小辞典シリーズ) 下宮 忠雄 (著) 1992年
とあっても,ほかにどんな意味が(派生して)出来ているかもう少し,説明や例が欲しい. 実際の使用例を辞書で調べると意味合いがかなり多義に渡っていて,整理するのが難しい. クラウン独和辞典には語源は書いてないが,こういう前つづりに関しては結構記述量が多い. 例えば,ent- にはent- 分離を表す接頭辞 : entcommen, ..., Antwort, ...など色々な例
今回は,読者には益が無かったかも知れないので,2つだけ,ent-で始まる 単語とその単語構造をを書いておく.
あと,ドイツ語の語源を勉強する際に参考になりそうな本を挙げておこうと思う.知ってるもの だけだが,思い出したり,新たに見つけたら追加していく.
もうひとつ,英語の語源になるが,次のサイトが詳しい.ここは個人で作成したサイトらしく, これも10年くらい前だが,綴り間違え(typoの類)を連絡したら,「一人でやっているので 中々手が回らず,こういう指摘はありがたい」と感謝されてしまった.こちらが利用させていただいており,感謝しているのに,なんという性格の良い人なんだろう.
Online Etymology Dictionaryここによると 「shoulder (英)」は語源不詳らしいので,上の連想は当たってないかもしれない.
今日,Google で「束論」とかのキーワードで検索すると,そのタイトル通り
が検索画面に出てきた.やはり,「文句」という言い方は強すぎるし,本人や知り合いがこれを見たらびっくりするだろうと思いなおして,「文句」を「要望」に変えた(日本語は分からないかもしれないが,もしかして彼のところに日本からの留学生がいないとも限らない).J.B. Nation の Notes on Lattice Theory への文句
少し柔らかくなっただろうか.J.B. Nation の Notes on Lattice Theory への要望
やっぱり,J.B. Nation 自身に,(私が)分かりにくいと感じる部分があるとメールを打っておこう.それを説明する英語のページも作ったことだし(後日談は,ここに書く予定).
* J.B.Nation の肖像画が,日本の KRJG 研究所のTKN AKHK 先生みたいになってしまった.
J.B. Nation の Notes on Lattice Theory への要望の第2の要望(Closure rules )について問い合わせた(第1の要望は,こちらのわがままなので).第2の要望については,概ね,この解釈で良い ということになった(実は,Closure rules の方は英語でもページを作成したので それで議論). いろいろ議論を 重ねて,彼も,将来の読者のために誤解しやすさは解消しておきたいというので, 彼のホームページ
Homepage of J.B. Nationの章ごとに分離された第2章の Closure rules の記載の最後に1パラグラフ追加された.今日時点では 全体をまとめたPDFには反映されていないが,そのうち combine すると言っている. 私自身は closure rule と (Y, z) とを概念的に分けるのには反対 だが(ペア (Y, z) だけにして,それを closure rule と呼ぶ方が簡単),現状の変更で誤解はしないようになっていると思うので,とりあえず, 満足した(そもそも,自分が作っているテキストではないので, こんな偉そうなことは言えないのだが).ちなみに私が書いた英語のページは
Comment on J.B. Nation's Notes on Lattice Theory about "a set of Closure Rules"ページのトップに,「解決し,J.B. Nation のテキストに反映された」という旨書いて,中身はそのままにしてある.一応. テキスト変更の理由は残しておいた方が良いと思ったので.
ふ~,J.B. Nation さん,もう退職されて,名誉教授なのね.下手な英語で変な要望を受けたにも関わらず,ご丁寧に対応いただき,ありがとうございました.
とりあえず,読めるようになったので,私はもう一度最初から,今度はノートを作りながら 読み直すつもりです.
Homepage of J.B. Nationここの akihiko's comment のところ.
殆どが計算機科学や関連の数学の論文,チュートリアル,テキストで,一般の人には 面白味が無いかもしれませんが,読む文献に飢えてる人は,私の積読を見て,物色して いってもかまいませんよ.出来たばかりの左のアイコンをピックしてみてください.そのページへ飛びます.戻してくれなくても良いところも,この積読の良いところですね.
積読のページを作ると,そのページをどのように装飾しようかなど,悩むことが沢山
でてきそうです.まずは,積読のページのコンテンツを充実してと...
なんでも, バイナリで配布しているバージョンに E: ドライブ参照のハードコーディングが あるからだとか読んだことがある.で,一向に,それが解決されたバージョンが配布されない. 自分でコンパイルしなおせばよいのかもしれないが,それだけの気力がない. おまけにいつも繋いでいるプリンタに SD カードを挿すところがあって, Windowsの立ち上げのたびにそこが E: になってしまう.毎回,gcc を使う時に プリンタのコードを引き抜いてしまえばよいのだが,やはり面倒くさい.
「う~ん」と考えて,とりあえず,Windows のディスク管理ツールを使って, 小さい VHD (Virtual HD) を作って,そこを E: ドライブに 割り当てることで,プリンタについている SD カードのドライブが E: に割り当てられることを 回避した.
J.B. Nation, Notes on Lattice Theoryの第2章に出てくる
「これは間違っているんじゃないか」と文句のメールを書いている最中に突然 分かった.いままでも,一生懸命考えていたと思ったのだけど, 実際に文句をつけるとなると考える度合いが変わってくるのかもしれない.詳しくは
J.B. Nation の Notes on Lattice Theory への文句に書いた.
メールを出さなくてよかった.でも,(私を含めて)一部の人たちにとって 勘違いしやすい定義のように思うので,どうしようかと思案中.実は J.B. Nation さんに クレームを送るために英語で,誤解しやすさと誤解の生じにくい定義方法のページも 作成したのだが,送れないでいる(気が小さいので).
他の日記へのリンク - メモのような日記のような(3) 2019.11.16- へ
- メモのような日記のような(2) 2018.11.24-2019.10.30 へ
- このページ→メモのような日記のような(1) 2017.10.17-2018.11.04
圏論を勉強しよう