メモのような日記のような(2) 2018.11.24-

Akihiko Koga

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以前の日記(メモのような日記のような(1) 2017.10.17-2018.11.04) へ

目次 (上が最近のものです)
  1. 海野十三の「もくねじ」 2019 年 3月 10 日 (日)
  2. 人間は動くものにしか注意を払えないか? 2019 年 2月 13 日 (水)
  3. 皮は役に立たないか? 2019 年 1月 11 日 (金)
  4. 中身のない人たち 2018 年 12 月 2 日 (日)
  5. 絵を使った青空文庫などのテキスト紹介の実験を始めた 2018 年 11 月 27 日 (火)
  6. 単純で,分かりやすく,楽しい絵を目指して 2018 年 11 月 24 日 (日)

海野十三の「もくねじ」

2019 年 3月 10 日 (日)

最近は次第に計算機科学の基礎の勉強に戻ってきているが, 青空文庫の作品に絵を付けるのも 週に1~2作品くらい続けている.数日前, 海野十三 「もくねじ」に絵の 紹介を付けたが,これが数日してジワジワと(心身に)効いてきた.

内容は,

生み出されたばかりのピカピカの真鍮のもくねじが,将来,自分が「社会の中の どんなところで使われるだろう?」と胸を躍らせているのだが,あるとき,自分が 他のもくねじと違うということに気付いて,思っていたような活躍ができない
という お話である(あまり詳しく書くとネタバレになるのでこのくらいにしておく).

この短編小説の何がジワジワと効いて来るのかというと, せっかくハマった穴からすっぽ抜けるところや,その悔やみ方が結構自分自身の体験と 符合してみたり,いかにも世の中でありそうな感じがするのだ. 海野十三も逓信省電務局電気試験所に勤務し,後に探偵小説でデビューしているので 自分自身のことも考えながら書いたのだと思う.「ねじ」というきちんとハマらなければ ならないものを主人公にしているのも,考えて選んでいるんだと思う.

世の中には

  1. せっかく入った組織で自分の居場所を見つけられずに悩む人
  2. 組織のために必死に役に立とうと思っているのに,能力不足などでそれが出来ない自分に 本当に悩む人
  3. 組織に役に立っていることをみせないとそこに居られないという思いから自己を演じるの だが,その姿に自己嫌悪を感じて悩む人
    ・・・
のように色々な「もくねじ」君の悩みがあると思う.組織と個人の関係は色々な議論があるとは思うが, もともと,どちらか一方の価値観だけが正しいというようなことは無いはずなので, 組織を破壊し,多くの人の生活を不可能にするのでなければ,バランスのとれたところで 必ずしも正確に同じ方向を向いている必要は無いのでないかと思う.つまり,あまり 善悪の倫理観に悩む必要は無いのではないかと思うわけである.10 回のうち,1 回でも役に立っていれば 良いのではないかと.

ところで私の知り合いを思い浮かべてみると〇氏,□氏,△氏ほか,なんとなく,(規格を外れた方の)「もくねじ」率が高いような気がする.これは,私の知り合いに特に多いのか,実は,世の中そんなものなのか.まあ,あまり気にせず,今日も元気にお勉強に行くことにしよう.

人間は動くものにしか注意を払えないか?

2019 年 2月 13 日 (水)

去年(2018年)の11月終わりに知り合いの Otsk 社長の研究会で 連続体仮説の解説をやったとき,そこに出席していた Kndh さんに色々ご指導を受けてから, しばらく,数学を勉強する気力がなくなっていた.仕方がないので, 青空文庫の諸作品に絵で解説をつけるという企画を延々やっていた.つまり, 青空文庫の作品を読んでは,それを説明する絵と短い説明を付けていくのである. この単純な繰り返しが結構心地よい.

そんな状態が二カ月ほど続いたので,そろそろ立ち直らねばと,まずはリハビリに

  1. 簡単な演算子順位法によるパーサー in Ruby
    DEC10-Prolog みたいな演算子順位文法のパーサ.
    構文解析部だけなら200行以下.

  2. SKIコンビネータ AGAIN
    上記のパーサーを使った簡単なコンビネータ論理の学習教材

  3. 動かして遊ぶλ計算の初歩 in Ruby 2019.2.21 追加
    上記のパーサーを使った型無しラムダ計算の学習教材
と,3つほど,Ruby で動くデモンストレーションのページを作ってみた.

直接,抽象度の高い数学の 勉強に戻ると言うのは難しいが,そこは計算機屋さんのメリットで,まずは動くものを 作って,次第につらいところにも戻るという方法がとれる訳である.

それで今回のタイトルの話題である.これは昔からの経験なのだが,殆ど同じ内容を 説明しても,単にプレゼンテーションや書き物で説明するのと,ちょっとしたデモを 使って説明するのでは聴衆の食いつきが違う.

なんか動いているという期待感があるのか,少しずつの変化なので内容を受け取りやすいのか, 単に人間が動くものに反応するように出来ているのか(カエルさんのように).

いろいろな理由があるとは思うのだけど,説明の中に動くものを入れると,聴衆も 関心をもってくれるし, 集中力も持つようだ.議論も活発になる.これは他人へのプレゼンだけでなく, 自分自身に対してもそうだ.例えば,上の SKI コンビネータ論理ではコンビネータ S, K, I の長い並びを変換していって,計算ができるのを確かめるのだが,机上で 追いかけていくとつらくて嫌になるのが,いくつか変換の過程を表示していくものが あると理解が進む.また,デモを見るのとは理由は異なるかもしれないけど,デモを作るのも, 物事を理解するのによい.

一方,逆に人間は動くものを正確にとらえることは苦手だと思う.プレゼンで 喋っている対象を強調しようと思って,ポインタを動かすと, 「ポインタを動かすな! 気が散る」と言われるし,時間とともに移り行く 情報は把握するのも,頭の中に保持することも難しい.

上記,あまり整理していないことを思うままに並べたが, 動くもの(デモや実験)と,静止しているもの(教科書など読み物)を 上手く取り混ぜると学習が捗ることは確かだと思う.今,自分がやっている 本来の目的の「計算機科学に役立つ抽象数学を楽に学習する工夫」でも この「取り混ぜ」は考えた方がよいのだろう.

まあ,なんにせよ,リハビリでもなんでも,早くやって,抽象数学とその計算機応用の お勉強に戻らなくてはと思う. あと,また元気がでたら,Kndh さんを誘ってお茶と議論でも 楽しまなくては.

皮は役に立たないか?

2019 年 1月 11 日 (金)

昨年(2018年)の11月終わりからずっと数学を勉強する気がのらなくて,この一カ月半くらい, 青空文庫の色々な作品に挿絵みたいなものを付けて遊んでいた.

挿絵といっても,ちょっとした 落書きのような絵に多少の文章を添えて,スポイラにならない程度に,その作品がどんな ことを書いているのかを紹介するというものである.現時点(2019年1月11日)で,180 作品ほどに説明の絵を付けたので,次の絵をクリックしてぜひ見て行って欲しい.絵は,ここに描いてある絵程度か,もっと下手なもので,間違っても「萌える」ような絵ではないので, 家族で安心して見ることができると思う.


青空文庫などの著作権フリーなテキストに挿絵や表紙をつける実験 (1)

以上のようなわけで,ここ一月半ほど,青空文庫で著作権の切れた作品(50年以上前に 著者が亡くなっている作品)を沢山読んだ.それで気が付いたのだが,あの頃の 作品は前置きが長いものが多い.例えば,今から絵を付けようかと思っている,夢野久作の 江戸川乱歩氏に対する私の感想など,半分は前置きで,後の方も締めくくりに向かっての 何かなので,内容は 1/4 ~ 1/3 位しかない.前置きの大部分は探偵小説での自分の大先輩で ある江戸川乱歩氏の批評を書くことの申し訳なさが延々と綴られている.

我々,技術者は,大学や会社で,「極めて速やかに核心の議論に入る」ように訓練されるので この手の前置きの長い文章を読まされると,「いい加減で前置きを切り上げて欲しい」と 思うのである.私は,ここ一月半,ずっとこの思いと,「なぜ,こうも 多くの人が,このような無意味な前置きを書くのか?」という疑問を持ち続けてきた.そして, もしかしたら,このような無意味に見える前置きにも意味があるかもしれないという気持ちが ちらりと出てきたので,今回の日記のタイトルで文章を書いてみようと思ったのである.この日記自身もずいぶん 前置きが長かったと思うが,それは上で青空文庫の挿絵企画を宣伝しなければならなかった からである.ということで,ここを読んだ人は必ず上の絵をクリックすること をお願いする.これが今回の日記を書く最大の目的であるのだから.

以上のようなわけで,ここでは,中身でなくその皮にも意味があり得るということを 書くつもりである.これは丁度,前回書いた「中身のない人たち」の逆を書くことになる. そこではフレームワークではなく,その中に入れるべき内容に,より重点を置いた活動を すべきということを書いた.この気持ちは変わっていないので,今回も,「皮(フレームワーク) にも多少の意味はある」ということを書くに過ぎない.

この先,少し長くて,若干趣旨も分りづらくなるので,今のうちにいったん上の絵を クリックして青空文庫を挿絵でブラウジングするページを表示し,ブックマークにでも 登録しておくことをお勧めする.

前置きの重要な役割の一つはコンテキスト(文脈)を設定することであると思う. これは技術的な文書でも同じである.ただし,技術的な文書では,素早く内容に入っていけるように, コンテキストは必要最小限の設定を行う.そして,価値のある「内容」に入っていくわけである. ここで注意しなければならないのは,内容に価値があるとしつつ,それ単独では 価値がないのである.少なくとも,その価値を分からせるためにはコンテキストを 最小限度理解してもらわなければならない.ということは,内容とコンテキストの インタラクションで始めて価値が生まれるものであり,内容だけでは価値を生じない ということになる.このような状況で,「内容」だけを重視して,「コンテキスト」には 価値を認めないのは正しい態度であろうか? 今,言ったように, 正確にはこの二つのインタラクションで価値が生まれるのである.たぶん,技術系の 話題では,価値を生むとき,より多くの価値が「内容」から発生するという状況が 生じる故,「内容」がかくも重視されるのであろう.とすれば,「内容」に価値を認める 以上,「コンテキスト」にも価値を認めざるをえない.すなわち,前置きにも価値を 認めざるをえない.コンテキストと内容,この二つは陰と陽である.「コンテキスト」は 「内容」に価値を認めるための「背景」,「内容」が「解決手段」となるべき, 解くべき「課題」である.

私がこの一月半色々読んだ作品は,まずは,寺田寅彦等の科学的な随筆,それから, 海野十三,夢野久作,欄郁二郎,小酒井不木等の探偵小説,SF小説である.特に後者は コンテキストを作ることが主な仕事だったりする.事件の真相は論理的に当たり前の 事であることが多いはずなので,それを隠すコンテキストが必要なのである. 著者は巧妙にコンテキストを設定していき,読者をある視点に固定する.そして, その視点を裏切る結末を用意する.したがって,コンテキスト設定は,彼らにとって 本業そのものなのだろう.そう考えると,彼ら探偵小説の作家が他人の作品の分析を 文章にするときにも,このコンテキスト作成が全面にでて,我々技術者をうんざり させるとしても,それはかれらの本職に忠実なる故と思って,それに耐えるか, あるいは,それを楽しむということが必要なのかもしれな.つまり,前置きが長く なるなと思ったら,我々の読書活動を,内容を得るという活動から,それがどの ように巧妙にコンテキストを作りつつあるかを観察する活動に切り替えるのである. そうすれば多少は我慢ができるようになるかもしれない.

すこし,話を拡張してみる.内容とその包み(皮)との対比で,私が思いだすものとして, 江戸時代の国学者の平田篤胤の法華経の評がある.法華経は,所謂,大乗仏教のお経で, 中国,朝鮮,日本など東アジアでは絶大な人気があるお経である.しかし,大部分の人は, そのお経を読んでも,中々,何をいっているのか分からず,例えば,平田篤胤は

「法華経」は薬の効能書きばかりで,肝心の丸薬がない
と言っている.「良く利く」という立派な包みの薬(?)があるのだが, 開けてみると薬は入っていないということだろう.また,法華経はらっきょうに例えられることも ある.「むけどもむけども実がない」と. 私も実は故あって 岩波文庫の法華経を3回ほど飛ばし読みしたのだが, 同じような感想をもった.一方,聖徳太子やその他色々な人が法華経を素晴らしいお経だと 絶賛している.これはどうしたことだろうと思う訳である.

まず,もともと所謂「大乗仏教」のお経は仏教の基礎の上に書かれているので,その 基礎部分は書いてないことが多い.「応用編」である.これが法華経に限らず,大乗仏教の お経の分かりにくさの原因の一つである.仏教の基礎として,「『苦』は自分の心が 作り出している」ということを補って読めば,なにやら修行方法を 述べているのではないかと思える部分も見えてくる.

もう一つは,これは私が仏教の真髄を知っている訳でないのであくまで想像だが, 仏教はプロセス的な性格が強いと思う.仏教では,人間に絶えず発生する苦,たぶん, 欲求と現状の差を「苦しい」と認識する自分をどうにかしていかねばならない. これには終わりがない.法華経にはその処方箋が書いてあるのだと思う. しかし,その処方箋は,何かをすれば苦が無くなるという処方箋ではなく, 苦の発生とその消滅の繰り返しの生き方が書いてあるのではないかと自分は思う. それはともすればらっきょうの皮のように余計な地の文章のようにみえるが, それらをすべて捨ててしまえば何も残らない.実は,らっきょうの皮自身に価値がある. 捨ててしまってはもったいないものなのであろう.

ある人は 法華経には内容がないと言い,ある人は法華経は実践的な処方箋,修行のマニュアルであると言う. 法華経のこの話は私のポイントがぼんやりしていると思うが,「内容」というものを明確に 決めることができない場合があるということと,プロセス的なものは内容と捉えにくいと いう例として出した.また,お経のある部分が,ある人には「効用」としか見えなくとも 別のある人には「手段」,「方法」,「修行法」と見えるということを述べた.

もうひとつ,実態が何か分からないのに価値があるように思えるものとして,数学があると 思う.これは昔の日記

数学とは,壮大なる言い換えの学問と見たり 2017 年 11 月 17 日 (金)

(ジャンプ先のファイルが重くなっているので目的の箇所に飛ばない場合は, ジャンプ先のページをこのタイトルで探してください)
でも書いたが,数学の定理は,公理的な立場では,「P ならば P」と同値なものを 馬鹿らしくない命題に見えるまで論理的な規則を使って変形したものに過ぎないはずである.したがって, 見た目が異なる形に変形された条件部と帰結部の組み合わせによっては価値があるように 見える例であり,これもコンテキストと内容の分離の提示と取れないことも無い.

以上,若干,とりとめもなかったが,皮と中身,入れ物と中身,陰と陽,手段と効用などの, 通常,価値を認める側でない方に着目するのも良いということ,何もないところから,これらを認識して 分離することで価値が生まれることもあることなど,ときどき私が思うことを述べた. もう少し考察が必要と思うが,まずは,日ごろ思考の形にしていないものをとりあえず,外に 出してみた.あまり整理できていないので申し訳ない.

最後に,私自身の実家は法華経絡みの宗派ではない.それから,今年から TPP の絡みで著作権の消失が死後70年になるので,今後 20 年は新たに著作権が消失する作家は ないことになった.残念だ.

中身のない人たち

2018 年 12月 2 日 (日)

大企業には中身のない人たちが多いように思う.

別に頭が悪いといっている訳ではない.日本の大企業には,東大,京大をはじめとした, 旧帝大,有名国公立大学,有名私立大学の卒業生が沢山いるわけで,とても優秀な 人たちが集まっている.

ただ,大企業では(たぶん)その性格上,仕事のフレームワークを 決めて,実際の仕事は系列会社,関連会社,そのほかの下請け会社に回すことが多い. その場合,大企業の人間は大きな枠組みの考察,仕事の采配,管理までをやってお金を 稼いでいる.結果として,技術は下請けの方に集まり,親会社では,大まかな 考え方,技術動向などは把握しているものの,具体的な技術内容になると分からなく なるということが起こる.

こうなってくると大企業が儲けていられるのは,長年築き上げてきたそのポジション 故であり,すでに持っている財産,その他のリソース(人や設備,各種団体との コネクションなど),それにある種,集団の思い込みで 支えられている面があると思う.社会がそれに気付き,思い込みから覚め, さらに,持っていたリソースの優位性がそれほどでもなくなると,徐々に 内部の人間そのものの実力通りの評価になっていくのではないだろうか. 親会社と子会社の関係も段々変わって きているような気がする.

人間個人の能力評価も同様だと思う.大企業から出てしまえば,企業が後ろ盾になった 従来の人間関係に頼った仕事はできない.そのとき自分に何があるだろうかと 振り返ったとき,フレームワーク作りだけでは役に立たない.うんと画期的なフレームワークで 協力者も自分の情熱で集められるような力を持った人ならいざ知らず,普通の人が 普通のフレームワークを作ったところで,従来の,色々なリソースを動かせる立場を 失ってしまえば,あまり,役に立たない.そういうときでも役に立つ自分の「中身」と いうものを常に獲得し続ける努力は必要なのではないだろうかと思う.かくの如く言う 私も実は殻だけで中身を作らない傾向がある.だいたい,数学をやっていて,定理が どういう意味を持っているかまでは興味があるが,その証明までは面倒で追っていけない. こうやって面倒な証明を飛ばして勉強していくと,ある日,物事の推論能力が衰えて いることに気づいて,愕然とすることがある.

世の中には,これと反対に中身だけしかない人たちもいる.しっかりした殻, フレームがない状態で知識だけを次々に詰め込んでいくので,あちこちで知識が こぼれだしているような人たちである.

社会としては,殻と中身のバランスの取れた人が好ましいのだろうけど,個人の幸せと しては,これはこれでありだと思う.私も今ここを目指したりしている(かもしれない).

では,中身の無い人と中身だけしかない人が組んだらうまくいくだろうか? これは 人間同士の話なのでなんとも言えないが,うまく行かないことの方が多いと思う.中身だけの人は,なにも 特別優れている訳でもない入れ物に入れてもらう必要なないわけである.それほどの 利益もないのに堅苦しくなるだけなので長く続かないんじゃないかと思う.

私も今年還暦(60歳)を迎えた.すでに5年前に自主退職はしているが,今後, 年老いていく中,どうすれば自分も楽しくて,また,世の中にも少しは役に立つかを 考えていかなければならない.一つ前に書いた,青空文庫に表紙や挿絵-like なものを 付けていくのは,ある種,(半)中身を付けていく行為だと思う.著作権フリーの 大量のテキストの蓄積や検索も良いのだが,中身に直に触れないで,そういう外の 一般的な ICT 技術の適用だけだと,人間にとっての面白味まで降りていけていないことも 多いと思う.一度,それを体験してから,一般的な ICT 技術の適用を考えたらよいと思う.

絵を使った青空文庫などのテキスト紹介の実験を始めた

2018 年 11月 27 日 (火)

「青空文庫」のテキストなどの著作権の切れたテキストが,ボランティアなどの努力で 大量に蓄積されてきている.これは人々が質の高い多くの文章を無料で使うことが でき,とても良いことだと思うが,今ひとつ活用が進んでいないのでは ないかと思う.

と言うのも,私自身があまり読む気になれないからだ.なんとなく, 古臭い,面白くない, 無価値だという感覚がある.時がたっても,その時代時代の才能のある人が書いた文章は 深い味合いを持つと観念的には分かっていても,である.また,例えば,青空文庫の文章だと 何を読もうかとブラウジングするとき,読むかどうかを決める情報があまりに少ないのも 読みたくならない一つの理由だ.どれだけの努力でどれだけの知識や感銘,楽しさが得られるか が分からない(テキストのサイズがブラウジングのときに分かるだけでも嬉しいのだが).

これらの解決策の一つとして,絵を使ってみるというアイディアがあると思う. と言うことで,とりあえず,その実験ページ

青空文庫などの著作権フリーなテキストに挿絵や表紙をつける実験 (1)
を作ってみた.

これは今思いついたことではなく,(恥ずかしながら)2009年頃から大学での 職を得られないかと応募しているときに,やりたい研究の一つとして 書いていたものである.「テキストに表紙と挿絵を自動生成してみたい」と. このことは, 本の表紙をデザインするページを作った(2017 年 11 月 20 日 (月)) 東京の地下鉄は日本一複雑らしい!(2018 年 10 月 27 日 (土)) にも少し書いた.今回は,主に手書きの落書きのような絵を使って青空文庫の 比較的短い随筆などを中心に表紙や挿絵を付けてみる.挿絵といっても, 棒人間みたいなものにセリフを書き込んだ程度のものが大多数になると思う. また,一度に沢山できないので,時間ができたとき少しずつ増やしていくことになると 思う.とりあえず,昨日,寺田寅彦の随筆10個に絵を付けて,そのページを立ち上げた. 最低,20~30 個のタイトルがあるとなにか使い勝手などが分かるようになるんじゃ ないかと期待しているのだが.


数学と語学 by 寺田寅彦
初出 :「東京帝国大学新聞」1929(昭和4)年4月
サイズ : XHTML版 9.3 KB

昨日,10 タイトル作ってみて感じたこととしては,同じような絵だと飽きるという いうことがある.実験としては条件を特定できなくてよろしくないが, 色々な手法を取り入れていこうと思う.例えば,昔,上に書いたような研究を しようと思ったときに,テキストを自然語解析させて,表紙に書くべき対象を 抽出するという簡単な実験プログラムを書いたことがあるが,最初に描いた10 枚のうち,2つはこのプログラムを使って出てきたキーワードをもとに描いた.

テキストに表紙や挿絵を付けていくという技術の開発・適用は,純粋に技術的な 問題だけでなく,著作権,著作者人格権などの法律の問題もある.例えば, 青空文庫にあるテキストは著作権は切れているものが多いが,著作者人格権は 生きていて,同一性保持権など,テキストにどこまで手を加えてよいかという 問題もある(基本的にテキストには手を加えられないような気がする). 上記の技術はテキストは変更せず,挿絵や表示を加えるので,直接テキストの 同一性保持権には抵触しないように思うが,やはり,文章にそぐわない絵, 例えば,アダルト画像などを貼り付けていく行為などは,著作者人格権を 侵害するものだと思う.今回は,安全サイドに寄って,テキストの外側に 付けていくことにした.これは付加的な効果として,ブラウジングに絵が どう使えるかを確かめる意味もでてくる.

色々書くべきことはあるように思うが,今日は,とりあえず,こんな実験を 始めてみたということだけ書いておく.

単純で,分かりやすく,楽しい絵を目指して

2018 年 11 月 24 日 (土)

私は計算機科学の教材の挿絵用に,「単純で,分かりやすく,楽しい絵」 が描けたら良いなと思って,時々,落書きの練習をしている.

例えば,上のような感じの絵だ.これは,www.marekbennett.com というサイトの人の絵を参考にして描いたものだ.サイトが移動してリンクが切れると いやなので直接のリンクは 張らない.興味のある人は上のURLをブラウザにコピペして見に行ってみて欲しい.

今日は,www.marekbennett.com で絵をいくつか探し,まねしながら練習してみた. 絵の練習方法にいろいろな意見はあると思うが,まねるのも結構役に立つと思う.

で,練習の成果を生かして,先日(2018.11.22),知り合いの Otsk 社長の研究会で 「連続体仮説の解説 AGAIN & AGAIN」と称して発表してきたときの様子を描いてみた.私を入れて,もと H 社の人が 5 名,その他の人が 2 名だった.

中々,一番最初にあげた絵までシンプルにする度胸がないので,中途半端なシンプルさに なってしまう.一応,思い切ってシンプルにした絵もあげておく.


世の中でよくある会話

なぜ,シンプルな絵を目指しているかと言うことも説明しておく.

近年,科学や数学などの高度なテーマに関して,マンガを使った入門書/解説書が 沢山出され始めている.これらは難しい理論に対する恐れを軽減したり, 読者をそれらのテーマに引き付ける効果があって,良いことだと思うのだが, それと同時に, たぶん,思うほどの効果をあげられていないのではないかとも思う.それは, 読者を引き付ける手段として,所謂,「萌え絵」とか,極端に言ってしまえば 「エロ」とか,ソフトにいうと「恋愛感情」を使っていることに理由があると 思う.


(学習者をきちんと数学に引き付けるべき.「萌え,エロ,恋愛感情」で無く.)

学習対象の学問に現れる難しい概念をかみ砕かないまま,人間の本能に基づく手段で 強引に引き付けても

と言った恐れがあると思う.私はなにも「すべての絵を学習すべき概念の説明図にしてしまえ」 と主張している訳ではない.学習者を楽しませる絵があって良いと思うが,それと 同時に,難しい概念をかみ砕く努力と,あまりに多くの学習者の能力を学習以外に振り向ける ことは良くないと思うだけである.だから,高度な題材の学習書では,絵はある程度 簡単で良いんじゃないかなと思う次第である.

では,逆に,マッチ棒人間みたいな単純な絵で恋愛マンガは描けるだろうか?

私は案外,描けるんじゃないかと思う.人間の想像する力はとても大きなものだ.

でも,私は今のところ数学のお勉強と教材作りに忙しいので,これはやらない.


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