メモのような日記のような(1) 2017.10.14-2018.11.04

Akihiko Koga

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次の日記(メモのような日記のような(2) 2018.11.24-) へ

目次 (上が最近のものです)
  1. 独自ドメイン取得とレンタルサーバー契約 2018 年 11 月 4 日 (日)
  2. 東京の地下鉄は日本一複雑らしい! 2018 年 10 月 27 日 (土)
  3. 「感覚的なもの」は「内容」を変容させて,新しい創造的な価値を生むか?
    製本,表現形態,創造,ついでに,システムにおける人間の寄与 2018 年 9 月 18 日 (火)
  4. アルキメデスの公理的な生き方,あるいは,迷いの世界の中 2018 年 9 月 2 日 (日)
  5. 数学の証明や説明と説得術(レトリックなどもかな) 2018 年 8 月 10 日 (金)
  6. Zorn の補題と選択公理 2018 年 7 月 26日 (木)
  7. Panasonic Let's note CF-S10 の熱対策 2018 年 6 月 11 日 (月)
  8. 相手の中に自分を見てしまう あるいは,Otsk 社長論 2018 年 3 月 3 日 (土)
  9. 「笑い」のリファレンスモデル,フレームワーク,デザインパターン 2018 年 2 月 10 日 (土)
  10. 同型とは単に要素の名前を付け替えたに過ぎない 2018 年 1 月 28 日 (日)
  11. 技術的な発表にも「起承転結」は必要? 2017 年 12 月 27 日 (水)
  12. 階層的な証明について~ 証明をビジュアライズする試み ~ 2017 年 12 月 15 日 (金)
  13. 「愛しているよ」と言葉にして欲しい! または Generalized element のこと または 量子論的な結婚観 のこと 2017 年 12 月 11 日 (月)
  14. ダンボールの上の研究者たち 2017 年 12 月 2 日 (土)
  15. 人に酔う 2017 年 11 月 27 日 (月)
  16. 本の表紙をデザインするページを作った 2017 年 11 月 20 日 (月)
  17. 数学とは,壮大なる言い換えの学問と見たり 2017 年 11 月 17 日 (金)
  18. クラウン独和辞典をブックオフで買ってきた -- ドイツ語の語源の話 -- 2017 年 11 月 12 日 (日)
  19. J.B. Nation の Notes on Lattice Theory の closure rules について (2)
    Web-site のページのタイトルを「文句」→「要望」と修正した 2017 年 10 月 25 日 (水)
  20. つんどく(積読)のアイコン第1号を作った 2017 年 10 月 23 日 (月)
  21. MinGW の gcc が E: を参照することについて 2017年10月21日(土)
  22. J.B. Nation の Notes on Lattice Theory の closure rules について 2017年10月14日(土)

独自ドメイン取得とレンタルサーバー契約

2018 年 11 月 4 日 (日)
やっとだが,独自ドメインを取得して,レンタルサーバーも契約した.

10月のはじめに geocities.jp が来年3月いっぱいで閉鎖されるので,どこか他の サーバーを見つけて移ってくれというメールが来た.geocities.jp は,契約している プロバイダの関係で広告なしのホームページが無料で作れていたので重宝していた. 本家本元の geocities が潰れて,日本だけが生き残っていたので,「ついにか」と いう気持ちはあったのだが.

サーバーを移るとなるとお金もいるし,検討も必要なので難儀だなと 思っていたのだが,会社を辞めてから,個人用メールのアドレスしかなく,なんとなく カッコイイメールアドレスが欲しいなと思っていたので, 重い腰を上げて検討することにした.そのときの検討および新しいドメインに移っての感想, そこで起こる些細な問題解決を

素人による,独自ドメインとレンタルサーバー選択

に書いた(色々,試行錯誤があるたびに記述が増えるはずだから「書いている」).

cs-study.com というドメイン名は,結構気に入っている.

Computer Science Study

の略のつもりだ.英語の文法にあっているかどうかは分からないが.

とりあえず,ドメインも取得してサーバーも借りて,年間,4,000円~8,000円の お金さえ払い続けられれば,恒久的に居られる場所ができたので,これを バネに計算機科学の教材作成に邁進することにしようかと思う.

今回はひねりが一つもない.

東京の地下鉄は日本一複雑らしい!

2018 年 10 月 27 日 (土)

私も昔(2010年位)は大学の教員の職を得ようとして,いくつか応募したことがある. 言い訳にはならないが,私は企業にいて仕事の内容も色々変わったので, あまりジャーナル論文の数がない.だから, 他の方法で目立たなければならないかなと思い, 「着任後の教育に対する抱負」に 次のような挿絵を載せてみたことがある.結局は無駄だったのだが(今は そのおかげで毎日気の向いたお勉強をして暮らしていけるので それほど悪い境遇ではない.少しお金を節約して暮らさないといけないが.これは やせ我慢ではない! と思う).

で,この絵に書いたことは今でも,かなり真理だと思う.大抵の数学の図式は, 少なくとも東京の地下鉄の路線図より簡単である.また,皆さんが自宅から学校なり 会社に通う通学路なり通勤路と比べても,通り道で出会う様々な景色や出来事などを 含めると,やっぱり,普通の数学の図式より簡単である.

では,なぜ皆さんが通学なり,通勤ができて,数学ができないのか (ちょっと,失礼かもしれません)?

数学で図式なり定義なり,定理なり,証明なりを頭の中で保持するコストが 大きいからじゃないだろうか.我々が数学の教科書を読むとき,定義や定理が 何を言っているかイメージするのに相当時間がかかると思うし,(頭の) 労力がかかると思うし,それで嫌になるし,で,中々読み進めない. うっかり,自分の理解以上のスピードで進めてしまうと,あとで, 用語が分からなくなり,どこに出てたかなと探すことになる.

これらが通学路や通勤路にあるもののようにはっきりイメージできて, 新しい定義が出てきたとき,本の少しの労力で,その定義のイメージを 描くことができたら,私たちは,今みたいに数学の本を読むのに苦労しない かもしれない.

と言うことで,一度,徹底的に,「本当にはっきりイメージできるまで」 教科書の最初の方を,

  1. じっくり読んで
  2. 絵に書いて
  3. それでも足りなければ紙や木で模型を作って,質感やボンドの匂いなどを嗅ぎながら
  4. 五感とその概念を結び付けて
  5. それを土台に読み進めて,
  6. そして最後にそれらの具象を意識的に切り離せるようになる
という努力をしてみたらどうだろう? ここのサイトでは絵を多用している. これは
  1. 概念を明確にする絵
  2. 少し,エモーショナルな,心を軽くする(ことを意図した)絵
の両方を書いている.また,米田のレンマや 半群論のグリーンの関係のペーパークラフトも作ってみた. これは上の実験の一環のつもりだ.これらの試みがどのような効果を生むか, いろいろ感じてみたいと思っている.

この考え方は Kndh さんと語るにも書いているので参照してほしい.

「感覚的なもの」は「内容」を変容させて,新しい創造的な価値を生むか?

製本,表現形態,創造,ついでに,システムにおける人間の寄与

2018 年 9 月 18 日 (火)

たぶん,かなり分かりにくいタイトルだと思うが,例えば,

まったく内容は一緒のドキュメントを PDF で PC の画面上で読んだ場合と, 製本されたものを手に取って読んだ場合では,読者の中に生まれる創造的な 価値は変わるか?
と言った問題である.

先日,知り合いの Otsk 社長が彼のコンサルティング会社(ソフトウェア関連)で 出すかもしれない小冊子の PDF(製本用)を送ってくれた.私は,時々, PDF のドキュメントなどを 簡易製本して遊んでいるが,Otsk 社長も昔,同人誌などを製本して遊んでいたらしい.

PC の画面で読むドキュメント製本したドキュメントは 読み手に与える印象が 違うというのは,彼と私の共通の認識のようだ.たぶん,彼と私だけでなく多くの人の認識だろう. 私は,なんとなく製本したドキュメントの方が価値があるような気がしてしまう.紙の手触り, 重さ,あるいは匂いなど,様々な要因でちょっと,「知的」にも 満たされたような気がしてくる.この受け手が感じ取るほんのちょっとの感じの違いが,大きな創造性の違いに なるかもしれない.


ここで,私は従来の本の方が電子的な本より優れているという論をしようと いうのではない.従来の本は,電子的な本にない色々な魅力を持ちつつも,やはり, 今後,電子的な本が色々な可能性を求めて,より発展,普及してくべきだろうと思って いるからである.

そうではなく,通常,ドキュメントの「内容」には入れない因子「感じ方」に影響を与える微妙な因子が 受け手の内容理解や,あるいは,創造性に 影響を与えるだろうかという疑問を私は抱えているということである.このような 因子としては製本時の,紙の手触り,重さ,明度,香りなどがあるだろう.さらに 言えば,字の濃さ,フォントの形,大きさ,文章のレイアウト,図の大きさやレイアウト などかなり内容に近づいてくる因子もある.実は,「内容」とそれに関係しない「感覚的な もの」の境界を引くことさえ難しい.直観的に言えば,例えば,本の内容を一階述語論理に 落としたとき抜け落ちる多くのものが「感覚的なもの」なのかなと思う. いや,本の内容はたぶん一階述語論理では書けないだろうから,これも大して 線引きには寄与していない.

本当は,今回は,この問題に自分なりの考えを書くつもりだったのだが,書き始めると 問題の設定さえできないということが実感されるようになってきた.最初に出した絵など は,「(同一の)内容」など,突っ込みどころ満載な絵である. いま,論を進めるのは無理そうである.かといって,放っておくのも, 頭の中に何度も現れる疑問をそのままにしておくことになり良くないので,上記のメモ的な 内容だけでも 残しておくことにした.

また,上の副題に

製本,表現形態,創造,ついでに,システムにおける人間の寄与
と書いたが,製本,表現形態と創造については上に書いた内容からおよそ問題意識が 分かると思う.もう一つの「システムにおける人間の寄与」が この問題にどう関与するのか,分かりにくいと思う.これは,私の知り合いの 何人かのシステム屋さんが
システムとはそれの部分の算術的総和以上のものである
といい類のことを良くいうのだが,「価値を生む」という観点からはつながると 思ったからである.

通常,「もの」が複数あると,それらの相互作用があるので, 算術総和以上のなんらかの機能が発生する.そうすると,上のシステムの定義は 「もの」が集まってさえすればよいのだろうか? つまり,この定義だと, 世の中にシステムで」無いものは存在しなくなってしまう.しかし,通常,システム屋 さんの頭にあるのは,「何らかの有益な機能」である.もっと,詳しくいうなら, 「人間にとって何らかの有益な機能」である.そのシステムの個々の「もの」を 見ていただけでは気がつかなかった「人間にとっての」有益な価値のある機能,驚きの価値の ある機能である. 今までの技術屋さんは,システムを考えるとき,その中に人間を 入れたがらなかった.人間を入れると対象の記述が曖昧になるという恐れからだろう. しかし,人間という評価者がいないとシステムの価値は発生しないのだと思う.

上で,

「感覚的なもの」は「内容」を変容させて,新しい「創造的な価値」を生むか?
という問いの意味を明確化したいと述べたが,そこで生まれるかもしれない価値も 人間の「感覚」に大きく依存したものであるということを思い起こす象徴的なものとして システムのビューに関する問いもメモとして残しておく.

アルキメデスの公理的な生き方,あるいは,迷いの世界の中

2018 年 9 月 2 日 (日)

私は,まだ会社勤めをしていたころ,「アルキメデスの公理」 を生き方の指針にしていた ことがある.アルキメデスの公理とは,次の絵に書いたように,

(どんなに大きな)正の数 Y と(どんなに小さな)正の数 x に対しても,ある自然数 n が 存在して,n・x ≥ Y となる.


というものである.よく知られている原理だが,アルキメデスの名前がついていることは 知らない人も多いと思う.

これをどのように使うかというと,単純な話だが,

どんなに大きな仕事でも,毎日少しずつきちんとやっていけばいつかは終わる

と思って,気を楽にしながら,毎日地道にやるべきことをやっていくのだ.

この公理にはいくつかの欠点がある.まず,n がいくつになるかということである. これが非現実的な数だと,「いつかは終わる」とは言えないだろう.また, Y が時間とともに増える場合は公理がなりたたないこともあるし, 考えている空間が1次元の空間でなく,2次元以上で,ベクトル x がベクトル Y と 違う方向を向いている場合も適用できない.これらの場合は,Y を少し少なくして, つまり仕事を少し減らして n が現実的な値になるようにしたり, Y が増えないように工夫したり,方向をきちんと,こまめに見ていくなどの工夫が必要である.

しかし,こういう心配事や対策方法はあるにはあるにしても,実は,最大の困難の原因は自分自身である. Y の見せかけの大きさに悲嘆して,つい,心が折れてしまうのである


以上,いろいろなことを述べたが,しかし,基本的には,目標を達成する方法としては,我々にはこの方法,つまり地道にやっていく方法しかない と思う.

いま,私は学生時代のサボりのつけで, 計算機科学の基礎に必要な数学の勉強をしている.会社を辞めて,5年目に入るが, 圏論,半群論,束論など,中々終わらない.じつは,最近,さらに集合論まで加わって しまった.集合論は大学のときにサボりながらもやった常識的な知識の範囲内でなんとかなるかと思っていたのだが,やはり,もう少し 深く踏み込んでおかねばならないと思い始めて,今,公理的な集合論を勉強している. この状況は先ほど述べた Y が増大する現象に相当するので,やるべき Y を少し降ろしたり, 今できる範囲でアウトプットを出していったりと工夫しなければならない.

もう一つ,アルキメデスの公理的なアプローチには良いところがある.それはこういう 集中して 行う行為が心のために良いということだ.Y の大きさに心をかき乱されることなく, 一つ一つの x の達成に集中する.この行為が,写経や瞑想のように心に落ち着きをもたらし, 学習を促進して,結果としては最大のパフォーマンスを発揮する.先ほどは Y が大きくなる 状況を述べたが,実は,学習によって x だって大きくなる.逆に,心がかき乱されて x の達成をおろそかにすれば,まったく Y は減っていかないし,また,Y をこなすスキルも 身につかない.ちょっと話が仏教的になっているかもしれないが,般若心経の中にも

菩薩さま方は,この完全なる知恵の教えの故に,心にくもりがなく, くもりが無い故に,「あした天地がひっくり返ってしまうのではないか」というような 荒唐無稽な恐れからはいっさい離れて,究極の心が安定した状態でいることができる
(私の理解で書いているので一般的な理解と違っていたらごめんなさい)
のである.私の場合,特にもう仕事から離れていることもあり,
私が今やろうとしていることは Y が大きく,x が小さいので, 予定しているところまで終わらなかったらどうしよう
などと心配する必要はまったくない.やれるだけやって,やった範囲での成果をだしていけば よい.そのためには,もちろん,日々の方向付けなどはやっていかないといけないが, 一つ一つの x は,心を無にしてこなすことが大切である.まだ現役で沢山仕事を 抱えている人も,微調整や途中の成果のアウトプットを気にする必要はあるが, 一つ一つの x を無心でこなすことは大切だと思う.

とにかく,こころを無心にして x をしっかりこなしていくのだ.それが,大きな Y を 攻略することにつながる.しかし,「Y の攻略につながる」ことを見込んで x に打ち込んだ振りをすれば,逆に, これは「欲」に駆られて,効果を気にしながら x をやっていることになり, 出来ないと「あせり」がでてきて逆効果だ.したがって,本当に x を無心でやるのが良い. 幸い,今取り組んでいる「集合論」は面白いので,やりはじめれば無心で打ち込めるお勉強ではある.


迷いの世界の中で

最後に,今回は話が少し仏教的な方向に行くところもあったが,特に他人に仏教を 勧めている訳ではないことを断っておく.


P.S.

もしかしたら,人間の目的とは本来,Y をやり終えることではなく, x をやり続けることなのかもしれない.

P.S.2

本文にも書いたように心が押しつぶされたときは,この本来有効な手段を 選択・実行することが出来なくなる.そんなとき,再度, そこに戻るにはコツがあると思う.それは意思の力で無理やり戻るのではなく, 人間本来に備わっている特性を利用するのである. 少し心が元気な今,そのコツを書いておく.

  1. 単純なことの繰り返しをやる
    習字の練習をしてみたり,簡単なイラストを描いてみたり,なにか昔の名文の音読でも してみたり,歌の練習をしてみたり.青空文庫ほかで音読するストックをいくつか 決めておくと良いかもしれない.方丈記や平家物語の出だしの部分とか, 古今和歌集とか,宮澤賢治の雨ニモマケズとか,etc.

  2. ほんのちょっとだけ手を付けてみる
    全体の完成を期待しないで,1/10 でも,1/100 でもちょっとだけやってみる というのも良いかもしれない.

どちらをやるにしても Y を特には意識しないこと.無理に Y を外すのではなく, 長い人生でやるべき沢山のことの中のどれかをやっていると思えば良い.また, 心身ともに疲れていたら,ちょっと寝るのも良いと思う.

数学の証明や説明と説得術(レトリックなどもかな)

2018 年 8 月 10 日 (金)

数学の証明とは,命題が正しいことを確認するための論理学的手法であって(たぶん), 人間相手の説得術とかレトリックとかと関係無いように思える.証明は, それが公理から推論規則の連鎖で飛躍無く導かれていれば正しい訳で, 文章的に上手い下手の違いで元の命題の正しさは変わらないはずである.

これは一応認めつつ,人間相手だと,やはり証明における説明の上手い下手が出てくる. 特に,その証明を読む人が,学習を始めたばかりの初学者だと,証明の文章や そのほか表現の形態によっては,泣かなければならなかったり,また反対に, ずいぶんと学習がはかどったりする.


(この状況は少し怖い)

数学の本を買う人は2段階の投資をするんだと思う. 一段階目は本を買う時の金銭的 投資,そして2段階目はそれぞれの章やその中の定理などを読んで 理解するための努力と言う 投資である.普通,章も定理も沢山あるから,2段階だけではなく多段階かも知れない. 2段階目以降の投資は渋る人は多い.その結果,読まない本が溜まっていく. しかし,私みたいな読者から見れば,だいたい, 何でお金を払って本を買った後まで,投資をしなければならないのか.本を買ったら, 即,その場で分かるようにして欲しい.

それで,今回のテーマ,数学と説得術である.世の中では, 過去から現在まで,そして将来も, どうやったらうまく説得できるかを考えている人が沢山いる訳である. なにしろ,説得することはお金儲けに繋がるのだから.

本の著者なり出版社なりは,本を売ったからには,そういう技術を応用して, 説得術でも,態度の変容でもなんでもよいから,その本の内容を 苦痛なく読むように私を説得してほしい. 重要な定理も,我々が見逃していたり,読むのを嫌がっていたら,巧みな話術で 読むようにそそのかして欲しい.証明もきちんと説得して,苦痛なく分かった 気にさせて欲しい.正しかろうが間違っていようが私はいっこうに気にしないから.

たぶん,数学書の著者がそれをやるのは 難しいかもしれないから,出版社なりが,説得術の専門家のチームを立ち上げ,なんとか 読者を説得する本に仕立て上げるのだ.著者は嫌がるだろうが大部分の怠け者の 読者のためにやるのだ.もちろん, 本屋さんが口を出して失敗した例も世の中には無数に転がっているから, 上手くやって欲しい.結果がすべてだ.我々にぜひ一度目の投資で知識を与えて 欲しい.

ところで我々は何で数学の本を読むのが辛いんだろうか? ここをきちんと突き詰めて 行かない限り,著者の一人よがりの本になってしまう.世の中には,この手の本も 沢山ある.著者だけが分かりやすいと思い,タメぐちで短い説明,イメージ主導で 伝えようとする本が時々あるが,そのイメージが一般のものでなく,その著者固有の ものだった場合,滑りまくりで,しかも記述が ぞんざいなので文章を追って行くこと さえできない.この手の本に騙されて痛い目にあった人は結構いるはずだ. 圏論とか群論のやさしい読み物的な書物にこの手の本が多くないだろうか.

やはりある程度,教育や学習の理論によって行かないといけないだろう.

まあ,今のところ決め手はなさそうだが,地道にやっていくしかないと思う. 例えば,小学校の分数の教育方法などはきっと色々なところで色々な試行錯誤が なされて,また,実践の情報交換もなされ,かなり上手に教える技術が できていると思う.こういうところが分からない生徒にはこういう教え方で, こういう教具があってとかのノウハウである.また,どういうところが分からないかも 調べる方法が整理されているかもしれない.

こういう教え方の徹底的な研究はまだ大学教育ではなされていないと思う. 例えば, 圏論でこういうところが分からない場合は, こういう教え方でこういう教具があって など,小学生に教えるように徹底的に研究しても良いのではないだろうか?

いま,計算機科学では理論がどんどん進歩していって,そこそこの高校で 優等生でも,大学の科目で挫折することもある.また,大学を卒業して, 企業に入って最先端で研究している人たちの間にも,大学での基礎的な学問を 取りこぼしている場合があるだろう.とにかく世の中が難しくなりすぎている. もしかしたら,近い将来,教育の場で次のような会話がなされるかもしれない.

A 君はヒルベルト空間とか,いくつかのその手の空間のことは理解できる みたいなんですが,それを抽象化してモノイダルカテゴリーの中で 表現するということが分からないみたいなんですよ.手を変え品を変え 説明しているんですが,もうお手上げです.

このままだと2年生から3年生に 上がることはできないので,大学を卒業するのは無理なんじゃないでしょうかね.

今後,人間がさらなる発展を遂げるためには,教育や学習方法は大きく変わる 必要があるのではないだろうか? 発展し続けるのが幸福なのかという議論は あるとは思うが,発展し続けないとしたら,人間も変わっていかないといけないだろう.

最後に,証明の話に戻って,まあ,世の中には非単調論理とか色々な論理体系が あるので,説得が下手だったら, 命題が成立しない論理体系があっても良いかもしれない.なんの役に立つかは 今のところ分からないが.

Zorn の補題と選択公理

2018 年 7 月 26日 (木)
ここしばらく選択公理からのZorn の補題の証明に悪戦苦闘していたが, それがやっと今日終わった.

一応,Zorn の補題と選択公理の内容を書いておく.

Zorn の補題(Zorn's Lemma)

(P, ≤) を任意のチェイン(P の中の部分集合で全順序集合になるもの.鎖ともいう)に 必ず上限がある 順序集合とする.このとき, P には少なくとも一つの極大元(それより大きい元が存在しない元)がある. (この補題の中の「上限」を「上界」に変えてもよい)


選択公理(Axiom of Choice)

空集合でない集合の集合 X があるとき(つまり,x ∈ X ならば x は空でない集合),X の各集合から1つずつ要素を選ぶ関数

f : X → ∪X で f(x) ∈ x for ∀ x ∈ X

が存在する.

内容はどちらも一見あたりまえである.しかし,これを認めてしまえば,Banach-Tarski の パラドクス(半径1の中身の詰まった球を(点単位で)5つに分割して,それぞれをうまく回転して 平行移動すると,中身の詰まった半径1の球を2つ作ることができるというパラドクス)など, 結構,奇異なことがいえる.一応,現在の大部分の数学者は,この公理や補題を使ってもよい という立場にいる.

Zorn の補題の証明は難しいと言えば難しいのだが,大学1年生の集合論で出てくる程度の 補題である.証明の分量はどんな手法を使うかによって結構変わるのだが,私が40年くらい前,大学の時に買った 教科書(「買った」教科書である.「使った」教科書ではない)で2ページとちょっとである. 短い証明としてはハワイ大学の J.B.Nation 教授のホームページ にある Revised Notes on Lattice Theory - first eleven chapters のAppendix2 : The Axiom of Choice にあるものが約1ページである.

Zorn の補題は何回か証明を追いかけたことがあり,いつも難しいと感じていたが, 今回,改めて真面目に集合論を勉強しなおす気持ちになったこともあり,独力で証明してみようと思い立って, 取り組んできた.そして,言うのも恥ずかしいのだが,1か月半くらいかかって しまったのである.それも片手間にという訳ではなく,毎日,結構な時間をかけてである. また,「独力」で証明といっても,過去数回は証明を追って行って,毎回納得していた はずなので,かすかにそれらの証明が記憶に残っていたはずである.

Zorn の補題の証明の難しさは,極大元まで到達する1本のチェインを中々構成できないことである.もしそれがあれば,そのチェインに上限があるのだから,その上限が極大元である. 選択公理から,任意の元 x に対してそれが極大元でない限り, それより大きな元 f(x) を割り当てる関数 f がある.したがって, 基本的には任意の元 x0 を一つとって,それを f で上へ上へ伸ばしていくのだが,一生懸命のばして,極限まで伸ばし終わったその上に,まだ上があるかもしれないし,1本のチェインを伸ばしているつもりでも,いつのまにか別のチェインが混ざっていることもある.とにかく,一本のチェインのみを上へ上へ伸ばしていって,もう上が無いところまで到達させなければならない.それが難しいのである.

来る日も来る日も,「もうあきらめて本を見ようか」という悪魔さんのささやきに対して, 「いや,一度こういうことを経験しておかないと.自分は,計算機科学の基礎を 学びやすくする参考書やツールを作るのだから,そのための貴重な経験だ」と頑張って1か月半, ようやく出来た.自分でも,まさか,1か月半かかるとは思ってもみなかった. 自分のアホさ加減を甘く見ていた.こんなことができるのも,私が退職しているからで, 勤め人ではとてもこんなに Zorn の補題の証明に時間を費やしている訳にはいかないだろう. いや,もしかしたら勤め人でもできるかもしれない.別に Zorn の補題の証明ができなくたって, 給料がもらえない訳ではない訳で,帰ってからできるまで何年でもやってればよい訳だ.... 少し, 妄想が激しくなってきたので,現実に戻ろう.

Zorn の補題の証明に長いこと取り組んでみて,思うことがある.一つは集合論に関することで もう一つは教育に関することだ.

まず,集合論に関することとして,一般に,Zorn の補題は選択公理と同値と言われているが, これは ZF (Zermelo Fraenkel) の集合論の下にの話である.Zorn の補題は,ZF の成分を 沢山持っている.これが,Zorn の補題の方が選択公理単独で使うより,ずいぶん使いやすい ことの理由になっているのだろう.ここは Zorn の補題を学習するとき,一回は分離して, ここまでが選択公理,この後が ZF 成分と認識したほうが良いと思う.

もう一つは,数学の証明に対する学習者の態度である.最近,私は証明を自分ではあまりやってない.本に書いてあることを追いかけるか,あるいは,追いかけもせずに,なんとなくエッセンスを掴んだと思えば飛ばしてしまうという態度で勉強してきた.1か月半かかったにはいくつかの 理由があるが,この私の態度,証明の力を維持してこなかったことも1つの理由であろう.

これは,私がこれから作ろうとしている計算機科学の基礎のテキスト作成にも大きく影響を 与えると思う.計算機科学は,数学から見れば応用の位置にある.私は, 今のところ,イメージ中心で証明には重きを置かずに説明を構成しようと考えているが, 易しく,優しく,やさしくしていると,足腰が鍛えられず,証明などの力がない人間が育って しまうかもしれない.今持っているスキルでも,使わなければ衰えるし,もともとスキルがなければ,なにもやらないでそのスキルが突然身につくわけでもない.例えば,発表の力や説得力だってそうだ.一部の天才的なレクチャラーは突然の発表でも 人を引き付ける分かりやすい発表ができるかもしれないが,私ら程度だと,長い間発表しなければ あきらかに説明のとき詰まるようになってくる.テキスト作りでこの問題(易しくすると 同時に鍛えなかればならないという問題)をどのように 工夫していくかは今後考えていかなければならない.

まあ,とりあえずは一区切りついたので集合論のページ に選択公理とZorn の補題の項でも追加していくことにした (2018.08.01 に 「Zorn の補題と選択公理のお話」というタイトルで公開した).

Panasonic Let's note CF-S10 の熱対策

2018 年 6 月 11 日 (月)
(2018年7月26日(木)に書き直した)
6月に入って,私のノートパソコン(Let's note CF-S10)が,たぶん熱でよく動かなくなっていたので,ここには その熱対策の試行錯誤を書いていたのだが,あまりにゴチャゴチャになってしまったので, 詳細は
Panasonic CF-S10 の熱対策の試み
に移した.このタイトルに興味のある人はそちらを見て欲しい.

でも,そうするとここに絵が無くなるので,新たに絵を描いて,現在の状況を 載せておく.現在は,

のようになっていて,USBファンが動いていると,とりあえず,ノートパソコンは 止まらずに動いてくれている.

2018年7月26 日(木)

相手の中に自分を見てしまう

あるいは,Otsk 社長論

2018 年 3 月 3 日 (土)

2月の中旬に,知り合いの Otsk 社長が主宰している研究会に参加して,会が始まるまでの ちょっとの間,そこに来ていた Hgwr さんと雑談していた.


Hgwr さんは昔の会社で僕と同期入社の超優秀な人だ.彼は転職した後もソフトウェアの 分野で活躍している.そのとき,あまりに使命感に燃えて頑張っている ような気がしたので
僕らも歳なんだから,少しは自分の好きなことをのんびりとやったらどうだ?
と悪の道に誘ってみた.雑談のあと,なぜか,Otsk 社長に
世の中,正しい正しくないで割り切れないこともあるから...
と,たしなめられてしまった.「あれ? 今の雑談の中に,そんなに白黒つけるという主張が どこかにあったっけ?」と本気で悩んで3週間,先ほど何となく理由が分かってきた.

きっと,Otsk 社長は,私の発言の中に自分自身を見てしまったのだ.私が Hgwr さんに言ったことは 「好きなことをのんびりやったら?」という意図だったのだけど,結構,無茶苦茶なことを 言った気がする.Otsk 社長は,その論理的に解釈不能な言葉の列をなんとか解釈しようと 自分のフィルターにかけて変質させてしまったに違いない.つまり, 相手の中に自分を見てしまったのだ.さきほどの,きっちりした性格を連想させる 発言は Otsk 社長自身の頭の中で生まれたものなのだろう.

ところで,私は,Otsk 社長のことを金の亡者と思っている.Otsk 社長の ことを話すときも,「人に酔う」 で書いたように,金の亡者として描いている.これは冗談や周りを楽しまそうとして 言っているのではなく,本気でそう 思っているから言っているのだ.しかし,今気が付いたように,相手に自分を見てしまうということは,

金の亡者は,Otsk 社長ではなく,実は,私なのだろうか?
そう言えば,合点の行くところがある.Otsk 社長と話すとき,時々, 社会がどうあるべきかとか,ソフトウェア技術の発展真理の追及など, Otsk 社長らしくない表現が出てくることがある.私は,それは,何かの深謀遠慮や 相手に正体を気付かれないようにするテクニックで言っていると思っていたのだが, もしかしたら本気で言っているのかもしれない. 「きっちりした性格」,「真理の追究」,「ルーズな性格」,「金の亡者」の4つの語句を 繋ぎ合わせるとしたら,確かに
  1. 「きっちりした性格」と「真理の追究」
  2. 「ルーズな性格」と「金の亡者」
がうまく合うかもしれない.前者が Otsk 社長で後者が私だ.

しかし,これが本当なら, がっかりだ.私が Otsk 社長に見ていた理想はどうしてくれるというのだ. 同じ会社にいたとき,私が Otski 社長に見ていたものは下の図のようなものだ.

この図には書いてないが,第3軸目として頭の良さをとれば,Otsk 社長も 対比のために 書いた Kndh さんも ピカいちである.だから, Otsk 社長には,社会のためとか,ソフトウェア技術の発展などの戯言を言わずに, きちんとクールで,知的で,自分の欲望のみに忠実な悪役を演じて欲しいものだ.


補足) あまり重要でない話だが,Hgwr さんに何を言ったか段々思い出してきた.確か,
ソフトウェア開発の世界では,往々にして,現場と理論屋の乖離がある. 理論屋は現場には分からない抽象的な言葉で,おもちゃみたいな問題をこねくりまわして 遊んでいる.現場は現場で,日々の出来事に一喜一憂して,理論に注意を 向けようとしない.

これは,理論をやりたい理論屋が現実をくみ取る努力を することでは解決しない.所詮,理論屋がやりたいのは理論であって, それをやるためにしかたなく現実から問題をとってきているのだから.

この状況を打開するためには, 現場の人が理論を容易に学習できるようにして,理論屋としては 不完全でもよいから,一人の人の中に現実と理論を内在させることが 必要だ

といったことを話したように思う.うーん,たしかに,Hgwr さんに 「好きなことをゆっくりやれば?」とは言っていないみたいだ. でも,言いたかったことはあれだ.Hgwr さんも,もうだいぶ歳だし,食うに 困らんのだから,あまり世間の目を気にしないでよいのではないか.無理に現場と理論屋の橋渡しをしながら ソフトウェアの研究開発をしているというポーズにこだわらず, 自分の欲望に忠実に研究・開発をして,その結果で世間に 貢献しても良いのではないかということだ.これもまた相手に自分を見ているかもしれない.

「笑い」のリファレンスモデル,フレームワーク,デザインパターン

2018 年 2 月 10 日 (土)

4年前 2014年に会社を辞めた直後,「笑い」の調査を結構熱心にやった.

当時,計算機科学の基礎を効率的に学習できる仕掛け(教材や学習方法)を考えようと していた.これらの理論は抽象度が高く,学習するのがつらい 「笑い」はこのつらさを緩和する. だから,教材に,学問を駄目にしてしまわない程度のささやかな「笑い」を取り入れた かった訳である.そうなると感性だけで「笑い」を作り出すのでは不十分で,ある程度の 量の「笑い」を定常的に作り出す技術が必要になってくる.読者の中には,感性の領域に あるものに対して,こういう,謂わば工業的な取り組みはそぐわないと思う人もいるかも しれないが,私はそんなことはないと思う.テレビのコントのシナリオ作家などを考えて 見て欲しい.感性だけでやっていれば,たぶん,あっと言う間にネタが尽きてしまい, おまんまの食い上げになってしまうだろう.そのほか,「笑い」を飯のタネにしている 職業を色々と思い浮かべてみて欲しい.

古来から,「笑い」については,プラトン,アリストテレス,カント,ショーペンハウエル, フロイト,ベルクソンなど,哲学者や心理学者などが色々考察して,理論を提案して きている.これらはこれらで面白いが,私の用途のためには2つ欠点がある.

一つは,「笑い」にはいろいろな側面があるが,これらの理論は往々にして その一面しかとらえていないことである. ある人は,「笑い」を優越感に帰着させ,ある人は,極度の緊張の突然の緩和に 帰着させる.私の感じでは,現状では,「笑い」をどれか1つだけの理論に帰着させるのは 難しいと思う.これは提案された理論を排他でとらえずに,併用していけばよいので, あまりシアリアスな問題でなく,限界を認識するだけのことである.

もう一つは,彼らの理論は学問的なもので実践性に欠けているということである. 私の要望は「笑い」を定常的にある程度作り出すことであるから,「笑い」の現象の 説明だけで終わってもらっては困るのだ.私が知らないだけかもしれないが,彼らが ユーモアやジョークの天才だとかいう話は聞いたことがない.こういう状況は世の中に いっぱいある.例えば,

世の中にはこの類の人たちが沢山いるが,これらの人が唱える理論は, やはり実践性という意味で不安を感じる(もちろん,これらは頭を整理するのには とても役に立つ).

前置きが長くなったが,このようなわけで,退職後,「笑い」についての色々な書物や論文を 漁ってみた.私の問題意識は,「『笑い』を定常的に生産するためには,何を 考えなければならないか,そしてどんなテクニックが使えるか?」ということである. 前者は,「笑い」の場に登場する「もの」の集まりとその関係を理解するもので, 謂わば,「『笑い』のリファレンスモデル」なのである.同様の表現で いくと後者は,「『笑い』のデザインパターン」である.あるいは, 「『笑い』の(アプリケーション)フレームワーク」も考えられるだろう.

2014年当時漁った中では,次の2つは,使えるんじゃないかなと思った(あくまで,私の目的についてである).

  1. 上野行良 : ユーモア現象に関する諸研究とユーモアの分類化について, 1992, pp112-120
    こちらは論文である.丁度先ほど紹介した今までの哲学者や心理学者が提案した 「笑い」の理論を調査し,それらの共通的な枠組みや分類を行っている.
    (概要を「笑い」のリファレンスモデルやデザインパターンを作成するのに 役立ちそうな文献に書いた.)

  2. 織田正吉 : 笑いとユーモア, ちくま書房, 1986年5月27日第一刷発行, 313ページ
    こちらは著者が「笑い」を何とか整理しようとして,彼自身の整理を膨大な 実例を引きながら説明したものである.

上野氏の論文は「笑い」の色々な説をまとめようとしており,リファレンスモデルの近似 モデルとして役に立つと思った.13ページの短い論文だし,検索すれば PDF を見つける ことができるので,「笑い」に興味のある人は読んでみると良いと思う.

ここでは,以下,2番目の織田氏の本について話す.

織田氏は,本の中で色々なことを述べているが,我々の目的,つまり,「笑い」の リファレンスモデルに 使えそうな部分は,第2章「人をたのしませる笑い -- コミック」の中の,「人はなにを笑うのか」 (pp130-180)である.まず,141ページに

その前提として,<おかしさ><笑い>を区別しておく必要があります. 可笑しさというのは笑いを呼び起こす原因であり,笑いはそれに対する反応です. 例をあげると,人がころぶのが可笑しさであり,それを見て「アハハ」と 声を出すのが笑いです.
とある.読者は,「何を当たり前のことを」と思うかもしれないし,「いや, そんなところで分割するのはおかしい」と思うかもしれないが,とりあえず, これは何か「笑い」について構造が作られ始めている訳である.

文章はしばしば対象を不鮮明のまま分かった気にさせる.同じ内容でも,図に 起こしてみることで,より鮮明に分かったり,より強烈な印象を受けたり,そして, さらなる考察につながることがある.ということで図に起こしてみる.

上に日本語で書いたとおりのことが描いてある訳である.これだけだと面白く ないかもしれないが,この絵をじーっと眺めてみると,

  1. きっと,受け手の人間の中で「おかしさ」に対して,何らかの認識が 起こって,「笑い」が発生したんだろうな
  2. 「おかしさ」の中には何らかの構造があるよね.それが認知の プロセスと相まって「笑い」を引き起こすんだよね
とかに思い至る.絵は,このような,さらなる思考を誘う効果がある.このように気が付いたことを絵に書き入れてみる.ついでに, 織田氏の本にもう少し書かれているので,それも書き入れてみる. 赤で書いた部分は私が思ったことで,黒は織田氏の本に書かれていたことである. 「認識」の中には,とりあえず,
  1. 認知のためのリソース
  2. 認知プロセス
  3. 背景知識と文脈
を入れておいた.

織田氏は「おかしさ」の主要素を

  1. 笑いを起こす人物
  2. 笑いを起こす言動・状況
と書いている.「笑いを起こす人物」は,笑われる人物で,すこし偉ぶっていて, かつ,抜けている場合が多い.上にあげた主要素で表現すると笑いを起こす主なタネは 「笑いを起こす言動」にあり,その笑いの対象が「笑いを起こす人物」になるのだろう. 例えば,今回の日記の冒頭にあげた絵は,この例として作ったものである. 「笑いを起こす人物」は医者であり,「笑いを起こす言動」は,そのお医者さんが いう,「絶食しなさい」という命令と薬の袋に書いてある,「毎食後」の服用指示の 矛盾である.この絵は,この本の中の例をもとに起こしてみた.この本は,pp145-180 の 三十数ページで「おかしさ」の構造について,著者なりの整理を実例を交えて書いてある. 整理がきちんとしたモデルになっているかというと,たぶん,無理だろう.例えば, 「笑いを起こす人物」は必ずしも必要でなく,笑われる対象は自然法則のような 形のないものでも良いかもしれない.笑いの構造の中に時間的な流れが要求されることも あるだろう.でも,いくつかの抽象的なパターンにまとめられるかもしれない. 私が,織田氏のこの本が良いと思うのは,なっとくできるモデルが出来ているからではなく, 半咀嚼されて構造を抜き出しやすい形の多量の笑いの実例が載っているところである. これらは自分自身が「笑い」を考えるとき良い材料になる.

私自身は,「笑い」を作り出すテクニックを「実用」に供することが目的なので, 「おかしさ」の部分はいくつかのパターンをノウハウとして抽出した時点でこの 作業をやめた.このようにして「笑い」の核となる部分を作成した後は, 図に書いてある色々な要素,例えば,「認知のリソース」と突き合わせ,読者が きちんと認知できるだけの簡単さを持っているかのチェックを行うなど,形を 整えていくことにこのモデルを使うことができる.

例えば,冒頭の絵は,「おかしさ」の構造の中に,「笑いを起こす人物」のほかに 「(副)笑いを起こす人物」(その絵に出てくるナース)が入れてあり, この人の発言で絵の雰囲気を制御できるようになっている.冒頭の例では,「笑いを起こす人物」の 愚かしさを増加するためにその発言を使っている.また,次の例では,冒頭の例と違い, ナースを患者さん側の立場に近くして,状況を緩和する 効果を持たせる使い方をしている.「おかしさ」の部分はいくつかのデザインパターンが 入れば実用上十分のような気もする. 実は,このデザインパターンを示さないと,今回作ったリファレンスモデルの中には 「笑いを起こす人物」などのように形容詞として表れているだけで「笑い」の要素は出ていない. 笑いは,「おかしさ」と「認識」とその関係の 中に埋もれてしまっている.ただ,ここはさすがに企業秘密だ.明かすことはできない (単に出来てないだけのような気もするが).

最後に,今回なぜ,この日記を書いたかというと,次の本を図書で見つけて 借りてきた記念にである.これはつい最近出たことを知って,近くの図書館に あるか調べたら,あった(嬉しかった).

中村明 : 日本語笑いの技法辞典, 岩波書店, 2017年11月28日, 630 ページ

この本は日本語の文章での笑いに限るが(つまり,絵などテキストにならないものは入らないが), 「笑い」を転換,間接,転換,多重など12個のカテゴリー,さらにその下にも分類を 設けて,全体で287種に分類した大作である.これが出版される前に出た紹介用のパンフレット には,

などの例が載っている.まだ,あまり読んでないので,これから読んで, 自分の目的に使えるかどうか判断しようと思う.しかし, こういう整理の試みはこの分野の発展のために重要だと思う.600ページ以上と,分厚いように思うかも しれないが,比べてみると厚さはマクレーンの「圏論の基礎」とそんなに変わらない.持ち歩ける位の大きさだ.

(あっ! しまった.同じ構図だ.)

同型とは単に要素の名前を付け替えたに過ぎない

2018 年 1 月 28 日 (日)
Tom Leinster の General Topology というレクチャーノートに
同型とは単に要素の名前を付け替えたにすぎない
(isomorphism is just renaming of elements.)
ということが書いてあった.とても分かりやすい表現だと思った.と同時にこの言葉から次のような2つの 疑問が浮かび上がってきた.
  1. 同型の有難さとはどれくらい?
    一つの領域の知識を別の領域で生かすには同型はとても役に立つんだけど,どれくらい 役に立つの?

  2. 要素の名前とは?
    あれ? 集合の要素,いやもっと遡って,数学的なオブジェクトに名前なんて定義されていたっけ?

今回はこれらについて思ったことを書いてみる.

まず最初に,同型の有難さを考えてみる.集合 A と 集合 B が何らかの構造 S について同型の場合,集合 B で構造 S に関して成り立つことをすべて集合 A で 使うことが出来る訳だから,2つの世界 A と B の間のとても強力な関係を見つけたことになる. 例えば,A と B がグラフの場合,A で,ある点から別の点までの道を見つけようと思えば,B での 対応する点の間の道をA側に戻せばよい訳である.

しかし,一方,Leinster の言葉の通り,同型は名前の付け替えにしか過ぎない訳で そうそう都合のよい状況,つまり,世界 A は未だまったく未知の世界で,世界 B は よく調べられ,知識が整理された世界という状況が生じるものだろうか? なにしろ,A は B の中の名前を変えただけの世界だから.A がとっても難しい世界なら B もとっても難しい世界な訳だ.

と言う具合に,役に立つ,役に立たないの2つの予想があるわけだが,列挙してみると 結構役に立つ例が見つかった.例えば,群や半群の行列の表現などは分かりやすい例だし,

ex : R → R+ と log(y) : R+ → R
も単純だが, 加法と乗法が本質的に同型との見方を与えてくれて有難い.また,半順序集合 (P, ≤) から 順序イデアルの集合 O(P) への(中への)同型写像
P → O(P)     x |→ ↓x = {y ∈ P | y ≤ x}
は,B = O(P) の世界での知識の利用もさることながら, 完備な順序集合への埋め込みということで,極限のとれるより広い領域の存在を示唆してくれて 有用である.

これらはそのうちまとめてみたい.

しかし,このように知識の蓄積された領域や完備な領域の恩恵にあずかれない場合もあるだろう.

そのような場合,問題を簡単にする写像としては準同型写像がある.写像

h : A → B
が準同型で,B の構造が A に比べて単純な場合は,複雑さに隠れた問題の本質を見出すことが できることもある.ただし,この場合の欠点は,B の世界でのことが全部Aに持ち帰れないことだ.B の世界では問題の解があっても,A の世界で解を得ようと思うと,もう一工夫しなければならなかったり,あるいは,A では解がないことも起こり得る.

この同型写像と片方からの準同型の中間的な関連として随伴関係,あるいは,前順序関係に絞れば, ガロア接続という関係がある.これについてはまた別のところで述べようと思う.

次に,数学的なオブジェクトの名前のことについて考えてみる.普通,数学的な オブジェクトに名前という概念は定義されていない.もちろん,我々は要素のない集合を「空集合」 と言ったり,ある種の公理を満たす代数系を「群」といったり,その中の個別な群を「群 G が」などのように名前を使って識別しているが,これは数学の体系の中の概念でなく,単に我々が 数学を行う上で便宜的にそれらをそう呼んでいるだけである.たぶん,皆さんの周りにある本を 見ても「名前」という概念が定義されている数学書はないのではないだろうか.

名前の問題は数学でより,プログラミング言語の世界で良く認識されていると思う. 例えば,初期のオブジェクト指向言語に Smalltalk という言語があるが,これは クラスには名前がついていて,インスタンスには名前がない.インスタンスは変数に 実体を入れておくだけで,決まった文字列など識別子で参照できるような仕掛けはない. 変数は名前があるので,それで識別できると思うかもしれないが,変数の中身は別の オブジェクトに置き換えることができる訳で,変数を表す文字列はあくまで変数の 名前である.

プログラミング言語屋さんが作る言語ではオブジェクトの識別子はあまり設けないが, 人工知能などで登場する言語では名前が存在するものがいくつかある.応用領域に 近い人間にとって,オブジェクトに名前があるのは当然と思うのかもしれない.

すでに日記で書ける範囲では話は収拾できないようになっている.ここでは, 「名前」に関してはこのように色々と考えるべきことがあるということを 言いたかった.そういえば, この間,圏論を使って量子計算や量子暗号をモデル化するというトピックスの勉強会に いってきたが,そこで,圏論を使って,nameconame を定義するという話があった.そこでは量子暗号をモデル化する過程でちょっと使うだけだったが, もしかしたら,色々な取り組みがすでにあるのかもしれない.今度,良く調べてみようと思う.

あと,これは古いが,集合論のフォーシング(Forcing) に P-name という概念がでてきた. こちらは今まとめ中.

技術的な発表にも「起承転結」は必要?

2017 年 12 月 27 日 (水)
技術系の会社では,新人は発表の練習をさせられることがあると思う. 大学でも3年生,4年生,あるいは大学院生になると発表の仕方の指導が頻繁になる. そのとき良く言われるのが, 技術系の発表では,「起承転結」の形にストーリーを作ってはいけないということだ.特に, 「転」を入れてはいけないと教育されることが多いと思う.話の流れを途中で ひっくり返すのは聞き手の中に混乱を生む.実際,自分が聞き手になった経験からいっても, 発表者に話をしょっちゅうひっくり返されると聞き手としては相手が何を 言いたいのか分からなくなってくる.こういう訳で,発表練習では,「とにかく,順接の論理で行くように!」 と指導されると思う.

しかし,本当にそうだろうか?(あっ! ひっくり返してしまった!).

職場の発表指導でも,先輩たちは,口では「『転」』は入れるな」といいつつ, 実際は「『転』を作れ」と指導しているはずである.仮にあなたが順接だけの ストーリーで発表すると,

「お前の発表を聞いていると,誰でも考えるあたりまえのことを当たり前にやったと いうように聞こえるんだよ.全然,インパクトが感じられないんだよ.」
と言われるはずである.

これには,あなたが実際に仕事でやった方法と,発表での表現方法の2つのことがある.これらは関連しているかもしれない.

まず,あなたが実際に仕事でやった方法であるが,通常,単純な改良方法は皆が最初に試みるので,すでにやりつくされていることが多い.従って,もともとあなたが仕事でやった改良は,単純な順接で結ばれる推論だけでは できなかったはずである.もし,それが順接だけで説明できるなら,あなたは本質な問題解決が できてない可能性が高い.ある問題を取り除いたかもしれないが,それと同等,あるいは,もっと 大きな問題を持ち込んでいるかもしれない.したがって,あなたが「う~ん」と唸りながら その問題にとりくんだのなら,たぶん,「あちらを立てればこちらが立たず」というような状況に対して, 第3のアイデアを持ち込むことにより,両方を改善するといったことをやっていると思う. ここでの工夫はほんの些細なことでよいのである.とにかくこのような, ちょっと難しい問題解決をやっているのではないだろうか.

第二に発表の表現方法だが,人間は単純に推論できる帰結を聞かされても感動しない. 「ほー,なるほど,考えたね」と唸らせる何かが必要なのだ.もちろん,仕事の方法で 複雑な問題を解いて,それで「ほー,なるほどね」と唸らせられればよい.むしろ,そう あるべきだ.それが,先ほど,このふたつは関連しているかもしれないと言った理由だ. 第一のこと,つまり,殆どの問題は一筋縄ではいかないということがあるから, 人間はこのように一ひねりしたことに感動するのかもしれない.

これはもしかしたら,文学などで言う 「転」とは違うかもしれない.しかし,聴衆は,少なくとも,順接だけでは達成できない何かすごいことを 聞きたいのだ.困難に立ち向かって,それを非凡な知恵と,もしかしたら勇気も 奮い起こして,やっと解決したみたいな!  発表は聴衆に,カタルシスあるいは,爽快感を与えることが必要なのだと思う

もしかしたら, 逆にこの人間の感じ方が,第一のこと,つまり,仕事の問題解決に必要とされることかも しれない.問題が難しいかったり,その解決が意表をつくのは,人間がそれを解決している からだ.人間が解に求める価値も,それを難しくしていることも人間の特性がでている. 世の中の問題は,人間を感動させるために存在しているのかもしれない.

では,感動,あるいは心の大きな動きを人工的に作り出すことはできるのだろうか? ある程度はできる.落語のストーリーはお客さんに大笑いしてもらわないといけない. コントでもそうだ.これらは,いわゆる感動とは違うかもしれないが, 心の大きな動きを計算づくでつくりだしている.ドラマや映画の脚本もそうだ. 芸術的なことは一見ロジックとは関係ないように思われるが,こういうものの教科書を 見てみると,よく計算されて作り出されているように見える.ドラマで思い出したが, ストーリーの構成には「起承転結」のほかに「序破急」という構成もある.ここでは,明示的に 「転」は書かれてないが,「破」か「急」あたりに潜んでいると思う.

上で話した落語やドラマはもともと人間の感動に関係していることなので技術系の発表の話からは 離れてしまったと思われる人もいるかもしれない.では,もう一度技術系に戻して,今度は, 数学の証明を考えてみよう.これも「エレガントな証明」などという言い方があり,美しさ, 感動,ウィットに富んだ証明というものが考えられる.思ってもみなかった方法で 証明されると,数学者と言えども感動するのだ. 論理の塊ともいうべき数学でさえ 感動と無関係ではない.もともと,人がなぜ数学をやるかと言うと感動するからだ.

話はつきない.本当は,関連して「システムとは部分の総和以上のものである」とか, 「発明(特許)の要件とは」などについても言いたいことがある.でも,長くなるので, また今度にする.ただ,私はどちらも,人間の感動,感激が深く関係していると 思っている.と,逃げを打つ.

階層的な証明について
~ 証明をビジュアライズする試み ~

2017 年 12 月 15 日 (金)

以前,(特に大学での)数学教育における証明の表現方法について調査・考察したことがある.

ここに書くことは昔(2016年 5月 13日 (金) ), 知り合いの Otsk さんの私的な研究会で発表したことを元にしているが,将来もう一度考えることも あると思うので,ここでその概要や参考文献などをまとめておく.

「証明」というものは,たぶん,数学の醍醐味なんだろう.難しい数学的推論を 追っていくのが好きな愛好家も多いと思う.もしかしたら僕も昔そうだったかもしれない. でも,今は「難しいのはイヤなので,もう少しなんとかならんかなあ」と思う(ホームページのトップページにもそう書いた).

世の中には他にもそう思う人はいるみたいで,少し古いが

Uri Leron: Structuring mathematical proofs. American Mathematical Monthly, 90(3):174.185, March 1983.
という論文があった.これは,特に大学における数学教育において,
従来型の前から順々に厳密に 進めていく証明は分かりにくい.証明を階層的にして,上のレベルではどんな戦略で 証明するか,つまり,証明の粗筋がわかるような詳細さで書き,それを下のレベルで詳細化したり, 正当性の厳密な記述を与えていくべきだという趣旨で,その記述方法を提案した
というものである.一応,イメージ図を書いておく.
ざっくりした図なので具体的にどんな証明なのか分からないかもしれない.著者と タイトルで検索すると論文のPDFが見つかると思う.この論文の中では次の4つの証明例が示されている.
  1. 4n+3の形の素数が無限にあること
  2. 極限の定理
    limit x→a f(x) = L, limit x→a g(x) = M => limit x→a f(x)g(x) = LM
  3. 高校レベルの幾何学の証明
  4. T を有限次元の複素内積空間Vのエルミート作用素とするとき,V は T の特徴ベクトルの Orthonormal な基底を持つ.
Uri Leron のこの提案にはかなり抵抗があったようで,論文の中で,従来の証明スタイルを 守ろうとする仮想の抵抗勢力と問答する場面が描かれている.今回の日記の最初の絵は,その 場面を題材に描いた.

1983 年の Uri Leron の提案から,現在,すでに 34 年経っているが,欧米においても, この提案がある程度のポジションを得ているかというとそうではないみたいだ. ただ,一部の大学教育でこの方法が採用され,従来の証明方法で教えた場合と この方法で教えた場合の効果の違いが実験されたりしている.このように 教育法の実験も含めた検討の積み重ねは,今後,ますます高度な理論が必要と なる中で重要なことだと思う.ついでに私が読んだ,そのような実験の報告では Leron の方法が全面的に良いという訳ではなく,次のようなトレードオフを伴う ものだった.

  1. 証明の流れの理解は階層的な証明で点数が高く,従来の証明では点数が低い.
  2. 証明の細部の理解は従来型の証明の方が点数が高く,階層的な証明では 点数が低い.
まあ,予想できることではある.総合的な評価がどうかは忘れた.

Otsk さんの研究会で発表した時はこれに対して,私の試作的な提案も行った. これについてはここにサンプル を示しておく.

Otsk さんのところでの発表した時は,世の中のこのようなアプローチをざっくり 次のように分類して紹介した.

  1. 証明の理解容易性・学習を求めたもの
    Uri Leron: Structuring mathematical proofs. American Mathematical Monthly, 90(3):174.185, March 1983.(検索すればPDFが公開されている)
  2. 証明の抜け防止・網羅性を求めたもの
    「~は容易に分かる」,「同様に~も言える」,「~は自明である」は困りもの
    Leslie Lamport.: How to write a proof. In Global Analysis in Modern Mathematics, pages 311- 321. 1993.
    Leslie Lamport.: How to Write a 21st Century Proof, Journal of Fixed Point Theory and Applications doi:10.1007/s11784-012-0071-6 (6 March 2012)
  3. 図的推論など その他いろいろな証明スタイル
    認知科学的な考察から色々な推論方法が検討されている オイラー図,ベン図を使ったものなど

これらについても近々リファレンスリストを作ってこのページからリンクすることにしよう.

「愛しているよ」と言葉にして欲しい!

または Generalized element のこと

または 量子論的な結婚観 のこと

2017 年 12 月 11 日 (月)

圏論に generalized element という概念がある.よくある定義は

generalized element とは任意の射 x : X → A のことである.
といったものだ. これを読むと,一気に頭に疑問とモヤモヤが発生する.
「えっ,ちょっと待って, generalized element って? それは射のことじゃないの?」,「いや確かに定義には射だと書いてあるんで射なんだろうけど,それをわざわざ generalized element と言い換える? それになんの意味があるの? えっ,えっ,えっ? 僕,何か読み飛ばしてる?」
といった疑問とモヤモヤだ. 

一方, Tom Leinster の Basic Category Theory という本では

Definition 4.1.25 Let A be an object of a category. A generalized element of A is a map with codomain A. A map S → A is a generalized element of A of shape S .
と定義した後で,
‘Generalized element’ is nothing more than a synonym of ‘map’, but sometimes it is useful to think of maps as generalized elements.
と補足してある.つまり,
generalized element とは,射となにも変わりないのだが, これを generalized element と呼ぶと何か良いことがあるんだよ
と言ってくれてる訳である. 私には,このたった一文が有難いのだ.他の本で発生していた疑問,モヤモヤがすーっと 解消していく.

有難いことの一つは,「これは射と変わりがない」と断言してくれていることである. 他の本でも,定義としてはそう(射だと)言っているのだが,やはり名前を付けているからには,なにか 違いがあるのではないだろうかと探してしまう.何度か読み直して,定義そのものに違いがないと 分かると,もしかしたら文脈で特殊な意味が発生しているのではないだろうかと文脈を精査しはじめる.ここで文脈と言っているのは,例えば,「特殊な圏についてのみ,射を generalized element という」とかである.こういった文脈にも決定的な違いを発見することができないと,疑いは自分に向けられる.「ここまで 圏論のテキストを読み進めて理解したつもりだったんだけど,もしかしたら全然理解できてなかったんだろうか」と.Leinster の本では,この心配がまったく発生しないことが有難い.

有難いことの2つめは,もちろん,「こういうふうに別の名前をつけると良いことがあるんだよ」と 予告してくれていることである.このように言われることで,「では,その良いことを待ってみようか」という気になって,テキストから知識を受け取る準備ができる.

よくよく読んでみれば,ほかの本でも射を generalized element と呼ぶことで, 「集合の要素」を連想するようなアナロジーが成立することが書かれている.ただ,それを 強い言葉で書いてあるか,あるいは,そこの文章を読んでなんとなく分かるように書いてあるかの 違いだけだ.そこで,今回のタイトルが思い浮かぶのである.人は,相手の態度で何となく好かれていると分かっていても,きちんと口に出して「愛している」と言われると嬉しいということらしい.つまり,愛されているとは思っていても,頭の中は常に色々な可能性を展開していて, モヤモヤが発生しているところに,強い言葉で「愛しているよ」と言われると,そのモヤモヤが 一気に晴れて幸せな気持ちになるのだと思う.この言葉自身の直接的な刺激ももちろんあるだろう.

連想しながら,話題がどんどん動いていって申し訳ないのだが,上の「愛しているよ」の 例は量子論を思い浮かべさせる.実は,気の迷いから明後日開催されるある勉強会に参加する ことにした.明後日のテーマが量子計算を圏論のモデルを使って説明するというもので, 私は量子計算を全く知らないので,付け焼刃だが今勉強しているところだ.今,読んでいる本によると 量子計算では Qubit と呼ばれるビットにいくつもの重ね合わせの状態を作って,並列計算を して,それを観測することによって一つの状態に決めるそうだ.決して,Qubit の中に, ある確率で1つの状態が存在する訳でなくいくつかの状態があって,それを観測する ことによって1つに決定され,ほかの可能な状態は無くなってしまう(?)とのことだ.

これは先ほどの「愛しているよ」に似ていると思う.「愛しているよ」という人は, それを言う前に,実は頭の中で色々な思考が並列して存在するはずである. 本当は同様に愛している人がいて,ほんの少しの差で目の前の人に決めたのかもしれない. 本当は愛してなんかいなくて,平穏無事な研究生活に支障のない相手だったらそれで 良いのかもしれない.そういう色々な気持ちが同時存在していて,並列に将来何が おこるかなどの可能性が 探索(人工知能での探索)されていると思う.それが,「愛しているよ」と言った瞬間に 観測者にとってただ1つの状態しか見て取れないようになる.その言葉を発した人にとっても きっと思考が「愛しているよ」に集中して,ほかに振り向けられるエネルギーは低下している だろう.日本の男性は,「『愛しているよ』と言葉にするのははずかしいから,態度で分かれよ」 というけど,言う前の意識はそれほど明確に「愛している」と形作ってないと思う.

似たようなことは「発表技術」にもある.会社に入ると発表技術の訓練をさせられる. そこでは,一貫した主張を作るように指導される.「Aである.しかしAでないかもしれない.」 という発表を行うと受け手は混乱してしまう.発表者としては,本当は色々な思いがあるので 両方いいたいのだが,ここはぐっと我慢して「Aである」という主張を作っていくことになる. そうすると,本来多様な可能性が同時存在していたはずなのに,発表の場で,発表者と 聴衆の1つの関係が固定してしまう.これも量子論っぽい解釈ができるかもしれない.

今は,私は,会社をやめてそういう配慮も薄れてきたので,めいっぱい,聴く人を 混乱させていると思う.知り合いの KNDH さん には,「計算機科学をやる人はしっかり束論を やらねばならない」と言ったり,「束論は何の役にたつんでしょうね?」と聞いてみたり, ころころ態度を変えているので,きっとあきれているだろう.

先ほど言ったように明後日,某勉強会に参加するために,量子計算と モノイド圏(or 豊穣圏)を予習しないといけないのだが, ついつい,絵と長文を書いてしまった.何かやらないといけないとき他に手を出すのは 昔から変わっていない.とりあえず,できるところまで予習して参加することにしよう.

ダンボールの上の研究者たち

2017 年 12 月 2 日 (土)

K君,研究者としてダンボールの上に立つの図
私は長いことソフトウェアの研究者というものをやってきた.そうして,その間ずっと, ダンボール箱を重ねたうえに立っているような気がしていた.

大学でさぼったのもあって,基礎があまりできてない.それでも最新の研究をやっていかないと いけないので,必要最低限だけ勉強して,なんとかその上に立てるようにする. やはり忙しいので,あまり広い部分の土台を作ることはできない. そうすると踏んではいけない部分が沢山できてしまい,それで今回のタイトルにあるように ダンボールの上に立っているような気分になる訳である.おまけに世の中は日進月歩である. 次々に研究しなければならないことがでてきて,結果としてダンボールの上にダンボールを 重ねて,非常に不安定な状態になる.タイトルの最後には,「研究者たち」と複数形になっている. これは,周りを見渡すに,こんな状態なのはきっと私だけではないだろうという推測からである.

私は大学のとき,さぼったという自覚があり,その後ろめたさから 下に盤石な基礎を敷きたいと思っているのだが,そもそもそんな基礎を敷くことが できるのかという疑問もある.先ほど言ったように,世の中,日進月歩なのである. 学ばねばならないことが次々に出てくるのは仕方がない.きっと多くの人は,このような 足元の不安定さを我慢しながら仕事をやっているのだろう.

でも,もしかしたら,一度立ち止まって,土台をしっかりして進み始めれば,もっと良い成果を出せる 研究が続けられるかもしれない.

あるいは,もしかしたら,そんな土台を作っても,世の中の進歩ですぐ元の状態に戻ってしまうかもしれない.

あるいは,最初から土台がないのが本来の研究者の姿で,常に必要な部分を補強しながら進むしか ないのかもしれない.

色々なやり方が考えられるが,とにかく,私は,一度止まって基礎的な数学に 限って,土台をしっかり作る決心をした.55歳で人生の折り返し点をかなり過ぎてからなので これがうまくいくかどうか.

もっとも,「うまくいく」ということがどういうことなのかさえ,考え方によるのだが.

あと,そういうダンボールの上の研究者と付き合うと,必然的に次のような目に あうことは覚悟しなければならない.

いくら彼が,熱のこもった眼差しで素晴らしい未来を語っていても, 足元をしっかり見て,何があるか,そして足が震えていないか確認しないと,...

積み重ねたダンボールの上から一緒に落ちることになる.


次の絵はおまけ.

人に酔う

2017 年 11 月 27 日 (月)
退職後,僕はほとんど毎日,図書館に行って一人でいるので,人酔いをするようになって しまった.たまに,誰かと話し過ぎると,3日くらいは体調がおかしくなるのだ. 中々疲れがとれず,すこし頭がふわふわしたり.

先日(11月21日)も,知り合いのO氏とI嬢が主宰している研究会に行って,会の後 ファミレスで楽しいひと時を過ごしたのだが,やはり少し人に当てられてしまった.

個性の強い人ばかりだというのもあるが,ものに対するのと,人に対するのでは,後者では生物としての本能で,防御したり,主張を通す努力をしたりで, 能力のフル回転が起こるのだと思う.相手は古くからの知り合いなので,そんなことを 心配する必要はないのだが,たぶん,条件反射的に,そういう反応が起こってしまうのだろう.

一般的に,人と会話したり,人に説明したりするとき,よくアイデアが浮かんだり問題が解けたりすることが あるが,あれは,他人の新しい発想を取り入れるだけでなく,自分自身の能力もフルに絞り出して いるからかもしれない.


O氏とI嬢主催の研究会後のファミレスでの談話の様子

本の表紙をデザインするページを作った

2017 年 11 月 20 日 (月)
今日一日かけて, 「本の表紙を考える」というページを作成した.別にプロに喧嘩を売っているわけでなく, 素人が素人なりに,自分で製本した本に表紙をつけて楽しめれば良いという 程度のものである.右の絵はそのサンプル.実際に市販されている本はもう少し,例えば,出版社などの テキストが入っていると思う.

私は,インターネット上で公開されている半群論や圏論,束論などのテキストを印刷・製本 して持ち歩いているので,それらの本にちょっとした表紙が欲しかったのである. それで適当な絵と文を配置して表紙もどきを作っていたのだが,その作成ノウハウと 参考資料をまとめておくことにした.右の絵は,映画の絵の作り方を参考にして描いてみた ものである.そんな作り方を上にリンクしたページに書いた.

今回は,DO IT YOURSELF の製本のついでに趣味で表紙を作る方法を書いたが,これは IT の応用分野として面白いのではないかと思う.現在,青空文庫などに多量のテキストが 蓄積されているが,あまり読まれていない(と思う).文書が古臭いというのもあるが,

  1. 何を読んだらよいか分からない とか
  2. ちょっとは興味があっても,読むという行動を起こさせるまでの魅力がない
ということだと思う.主に2番目の問題に対するアプローチとして,テキストの内容から表紙を自動生成するという方法があると思う.この技術の評価は,読者に読む気を起こさせて,最終的にある程度 満足してもらうということである.したがって,内容を忠実に反映していても,あるいは,そこそこ反映していて,後は読む気を起こさせる絵として構成するでも良い.読む気を起こさせるとか 何となく読んでも良いなと思わせるとかは,今回,表紙のデザイン方法で考えたことと関連する.

実を言うと6・7年前に,ちょっとやってみたことがある.ほぼ人工無能なのだが,テキストを 処理して,表紙に描くものやその役割,相互関係をプラニングして出す.いや,実はミエをはった.このバージョンはプラニングまではしない.決まった表紙のパターンの各場所に入れる単語をテキストを処理して出力するだけだ.とにかく,その人工無能が出してきた単語をあらかじめ決めたパターンに合わせて自分でさっと落書きみたいな表紙を起こしてみる.絵が下手で申し訳ないが 右のサンプルみたいな表紙ができる.私はこの文章は読んでいない.読むと,さらに人間が 理解した内容が絵に入ってしまうかもしれないからだ.だから,絵の中の人の表情などは もとのテキストの「トーン」と大分違うかもしれない(もっとも,こういう文章の 「トーン」もテキスト処理である程度取り出すことはできるだろう). あと,人間は足りない情報を補って見ることができるので 私が意図しないことでもいろいろなメッセージを見る人に送っているかもしれない.

もう一つサンプルを載せておく.これも寺田寅彦の随筆で「アインシュタイン」という タイトルだ.これは描くにあたって「レナード(サンプルの絵を参照)」が誰かは調べた.かなり,アインシュタインを非難した 人みたいだ.でも,なぜ,ここに レナードを描くのかはよく分からない.とにかく例の人工無能に,ここにレナードを描けと 言われているので書いてみた.正面の人はたぶんアインシュタインではない.ここには 「私」を描けと言われた.この絵を見ただけでは,もとのテキストに何が書いてあったか さっぱり分からない.もし,この表紙を見て,その随筆を読んだ人は表紙に騙されたことに なるだろう.読んで良かったという具合に騙されてくれるなら良いのだが,別のふうに騙されても 怒らないで欲しい.なにしろ寺田寅彦の随筆だ.読んで無駄になるということはないだろう.

まあ,色々と議論はあるのだが,このような表紙でもついていると昔の著作権の切れたテキストでも読みたいという 気が起こる人の率は上がるのではないだろうか.

今は,圏論,半群論,束論の勉強をやらないといけないのでなかなか手がでないが, そのうち,機会があればもう一度取り組んでみたい.

数学とは,壮大なる言い換えの学問と見たり

2017 年 11 月 17 日 (金)
基本的に数学では言い換えしか導出できないはずですよね.ただし, ここで言うところの「言い換え」とは 論理的な推論のことを指します.
「論理的に推論できる命題」は,使う論理体系にもよるでしょうが,最終的には「AならばA」に論理的な推論規則を使って帰着できる命題でしかないはずです.使う推論規則としては, 条件部への新たな条件の追加とか,帰結部の命題の否定を条件部に移動するとか,「すべての」,「ある」と言った限量子を導入するとか,当たり前のものしかないので,やっぱり,普通の感覚で 言い換えしかやってないと思います. 逆に,もし,言い換え以上の推論をしているとすれば,それは
「証明できないけど俺はこのことを直観で理解した」
ということに なり,オカルトの類になってしまいますよね.つまり,数学とは,「A ならば A」という命題を 馬鹿らしさが露見しない程度まで変形していく学問ということができる訳です.その割には ずいぶん多彩な世界が作り上げられているように見えるし,また,数学の定理は 現実の世の中でずいぶん役に立ってもいるように思えます.きっとこの世の中は当たり前のものが色々形を変えて,みんなでそれらしく思いこむことで成立しているのかもしれません.

クラウン独和辞典をブックオフで買ってきた
-- ドイツ語の語源の話 --

2017 年 11 月 12 日 (日)
今日,図書館に行った帰りにブックオフによったらクラウン独和辞典が安く出ていたので 買ってきた(いくらかはナイショ).僕はドイツ語の語源に興味がある.語源やら, 語呂合わせやら,こじつけやら,なんでも利用してドイツ語単語を効率よく覚える方法を考えて, あわよくばお金儲けが出来ないかという野望を抱いている.
もう10年以上前だと思うが,
ドイツ語語源小辞典 (同学社小辞典シリーズ) 下宮 忠雄 (著) 1992年
を来る日も来る日も眺めていたことがあった.英語の語源については沢山の本が出ているが ドイツ語の語源の本はあまりない.(これを書いている時点で)手ごろなドイツ語の語源の本としては, この本がほぼ唯一ではないかと思う.でも,この本は薄いのでやはり記述量が少ない. 例えば,
ent- 分離を表す接頭辞 : entcommen, ..., Antwort, ...など色々な例
とあっても,ほかにどんな意味が(派生して)出来ているかもう少し,説明や例が欲しい. 実際の使用例を辞書で調べると意味合いがかなり多義に渡っていて,整理するのが難しい. クラウン独和辞典には語源は書いてないが,こういう前つづりに関しては結構記述量が多い. 例えば,ent- には
  1. 逸脱,出現
  2. 元の状態への復帰
  3. 奪取,除去
  4. 開始
  5. 対向
と意味の括りがあること.それとそれぞれの括りに例となる単語が載っている.たぶん,これを読んでいる人は上の5つに 分類された意味がどのようにつながるのか分かりにくいと思うが, 語源的な知識があると結構つながってくれる.と言うことで今日は少し嬉しい気持ちになってたりする.

今回は,読者には益が無かったかも知れないので,2つだけ,ent-で始まる 単語とその単語構造をを書いておく.

一応,どちらも使い出がある単語だと思う.また,「shuldig (独) 責任がある」,「should (英) すべき」が何かを負わせるという意味が共通していると分かれば,「shoulder (英) 肩」,「Schulter (独) 肩」も連想されるかもしれない.これが語源的に関係があるかどうかは, 私は自信がない.これが最初に書いた,こじつけでもなんでも覚える道具にするという部分だ.

あと,ドイツ語の語源を勉強する際に参考になりそうな本を挙げておこうと思う.知ってるもの だけだが,思い出したり,新たに見つけたら追加していく.

もうひとつ,英語の語源になるが,次のサイトが詳しい.ここは個人で作成したサイトらしく, これも10年くらい前だが,綴り間違え(typoの類)を連絡したら,「一人でやっているので 中々手が回らず,こういう指摘はありがたい」と感謝されてしまった.こちらが利用させていただいており,感謝しているのに,なんという性格の良い人なんだろう.

Online Etymology Dictionary
ここによると 「shoulder (英)」は語源不詳らしいので,上の連想は当たってないかもしれない.

J.B. Nation の Notes on Lattice Theory の closure rules について(2)
Web-site のページのタイトルを「文句」→「要望」と修正した

2017 年 10 月 25 日 (水)
J.B. Nation, Hawaii University, Lattice Theory ハワイ大学の J.B. Nation という人 ( 右の落書きのような人* )が束論の基礎のテキス(PDF)を彼の Web-site で公開していて,それを読んで勉強しようとしているのだが,一部分に分かりにくいところがあり,私のサイトに「J.B. Nation の Notes on Lattice Theory への文句」 というページを作っていた(日記に関連項目あり).

今日,Google で「束論」とかのキーワードで検索すると,そのタイトル通り

J.B. Nation の Notes on Lattice Theory への文句
が検索画面に出てきた.やはり,「文句」という言い方は強すぎるし,本人や知り合いがこれを見たらびっくりするだろうと思いなおして,「文句」を「要望」に変えた(日本語は分からないかもしれないが,もしかして彼のところに日本からの留学生がいないとも限らない).
J.B. Nation の Notes on Lattice Theory への要望
少し柔らかくなっただろうか.

やっぱり,J.B. Nation 自身に,(私が)分かりにくいと感じる部分があるとメールを打っておこう.それを説明する英語のページも作ったことだし(後日談は,ここに書く予定).

* J.B.Nation の肖像画が,日本の KRJG 研究所のTKN AKHK 先生みたいになってしまった.


後日談 (2017年10月30日記載):
日本時間 2017年10月26日に,J.B. Nation に
J.B. Nation の Notes on Lattice Theory への要望
の第2の要望(Closure rules )について問い合わせた(第1の要望は,こちらのわがままなので).第2の要望については,概ね,この解釈で良い ということになった(実は,Closure rules の方は英語でもページを作成したので それで議論). いろいろ議論を 重ねて,彼も,将来の読者のために誤解しやすさは解消しておきたいというので, 彼のホームページ
Homepage of J.B. Nation
の章ごとに分離された第2章の Closure rules の記載の最後に1パラグラフ追加された.今日時点では 全体をまとめたPDFには反映されていないが,そのうち combine すると言っている. 私自身は closure rule と (Y, z) とを概念的に分けるのには反対 だが(ペア (Y, z) だけにして,それを closure rule と呼ぶ方が簡単),現状の変更で誤解はしないようになっていると思うので,とりあえず, 満足した(そもそも,自分が作っているテキストではないので, こんな偉そうなことは言えないのだが).ちなみに私が書いた英語のページは
Comment on J.B. Nation's Notes on Lattice Theory about "a set of Closure Rules"
ページのトップに,「解決し,J.B. Nation のテキストに反映された」という旨書いて,中身はそのままにしてある.一応. テキスト変更の理由は残しておいた方が良いと思ったので.

ふ~,J.B. Nation さん,もう退職されて,名誉教授なのね.下手な英語で変な要望を受けたにも関わらず,ご丁寧に対応いただき,ありがとうございました.

とりあえず,読めるようになったので,私はもう一度最初から,今度はノートを作りながら 読み直すつもりです.


もう一つ後日談 (2017年11月1日記載):
Closure rules の誤解しやすさを説明するために作ったページを見て,彼の奥さんが大笑いしたとかで そのページが彼のホームページからリンクされることになった.
Homepage of J.B. Nation
ここの akihiko's comment のところ.

つんどく(積読)のアイコン第1号を作った

2017 年 10 月 23 日 (月)
積読第1号 読まないといけない文献が増えてきたので,積読のアイコンをを作ってみました. とりあえず文献のリストを書くページを一つ作ってしまえば, 安心してつんどく(積読)していけます.Web のページだと倒れる心配もないし.

殆どが計算機科学や関連の数学の論文,チュートリアル,テキストで,一般の人には 面白味が無いかもしれませんが,読む文献に飢えてる人は,私の積読を見て,物色して いってもかまいませんよ.出来たばかりの左のアイコンをピックしてみてください.そのページへ飛びます.戻してくれなくても良いところも,この積読の良いところですね.

積読のページを作ると,そのページをどのように装飾しようかなど,悩むことが沢山 でてきそうです.まずは,積読のページのコンテンツを充実してと...


2017年12月2日(土)追記
積読に積む作業が全然できていない.困った.

MinGW の gcc が E: を参照することについて

2017年10月21日(土)
MinGW の gcc が E: を参照していて,コンパイルするとドライブが無いと言ってウルサイ.

MinGW の gcc が E ドライブが無いと言ってウルサイ

なんでも, バイナリで配布しているバージョンに E: ドライブ参照のハードコーディングが あるからだとか読んだことがある.で,一向に,それが解決されたバージョンが配布されない. 自分でコンパイルしなおせばよいのかもしれないが,それだけの気力がない. おまけにいつも繋いでいるプリンタに SD カードを挿すところがあって, Windowsの立ち上げのたびにそこが E: になってしまう.毎回,gcc を使う時に プリンタのコードを引き抜いてしまえばよいのだが,やはり面倒くさい.

「う~ん」と考えて,とりあえず,Windows のディスク管理ツールを使って, 小さい VHD (Virtual HD) を作って,そこを E: ドライブに 割り当てることで,プリンタについている SD カードのドライブが E: に割り当てられることを 回避した.

J.B. Nation の Notes on Lattice Theory の closure rules について

2017年10月14日(土)
ハワイ大学の J.B. Nation という人が公開している束論の教科書
J.B. Nation, Notes on Lattice Theory
の第2章に出てくる a set of closure rules の定義がどうしても分からなかったのが やっと分かった.たぶん,年単位で悩んでいたと思う.

「これは間違っているんじゃないか」と文句のメールを書いている最中に突然 分かった.いままでも,一生懸命考えていたと思ったのだけど, 実際に文句をつけるとなると考える度合いが変わってくるのかもしれない.詳しくは

J.B. Nation の Notes on Lattice Theory への文句
に書いた.

メールを出さなくてよかった.でも,(私を含めて)一部の人たちにとって 勘違いしやすい定義のように思うので,どうしようかと思案中.実は J.B. Nation さんに クレームを送るために英語で,誤解しやすさと誤解の生じにくい定義方法のページも 作成したのだが,送れないでいる(気が小さいので).


次の日記(メモのような日記のような(2) 2018.11.24-) へ

圏論を勉強しよう
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